シトロエン - 世界一有名なアヒル                   熊谷 徹


日本ではあまり知られていないが、AISEC(アイセック)という国際的な学生の団体がある。

これは、経済学や経営学を学んでいる学生に外国の企業で研修の機会を与え、各国の学生の親睦を深めるというユニ−クな機関である。私が通っていた東京の大学には、たまたまこの団体の支部があった。さらに私の所属していた文科系のサ−クルには、この組織の主催する試験を受けてドイツの企業で研修をしていた先輩が何人かいた。

このため、それまで一度も外国へ行ったことのなかった私は、単に観光客として行くのではなくて、働く方が面白いと考えて、アイセックの語学と経済学の試験を受け、ドイツの銀行で1か月半にわたって研修を行う機会を得た。 

このようにして私は1980年の夏、西ドイツのル−ル工業地帯にあるデュイスブルグという町に、到着した。大きなトランクを引きずり、右も左もわからない東洋人を駅に出迎えてくれたのは、やはりアイセックに属するドイツ人の学生たちである。宿泊場所は、学生寮。休暇などで空いている部屋を使わせてくれた。戦争中、ドイツの産業の心臓部だったル−ル工業地帯は、連合軍の激しい爆撃を受けて、古い建物が破壊され、新しい住宅が多い。私の住んだ学生寮も、真新しく清潔だった。生まれて始めて日本を飛び出した私には、見るもの全てが珍しく、共同のシャワ−室も台所もさほど苦にはならなかった。

 ドイツの学生たちは大変親切で、われわれ外国人学生の世話をよく焼いてくれた。週末になると、私たちが退屈しないように、ライン川下りや森の中でのビ−ル・パ−ティ−、郊外へのドライブなどを催してくれた。アイセック主催のベルリンへのバス・ツア−もあった。今考えると頭が下がるほどである。

 この国では、公共交通機関がアメリカよりは発達しているとはいえ、郊外などへ遠出をする時には、やはり車がないと大変不便である。このため、われわれ外国人はどうしてもドイツ人学生らの車に便乗させてもらうことになる。

 この時に私は、日本で一度も見たことがない奇妙な恰好の車にたびたび乗せてもらった。戦前の車のように古めかしく丸っこいボディ、エンジンを収めるボンネットの横から突き出た丸いライト、屋根を覆う幌・・・日本の軽乗用車よりもこぢんまりとしているが、4ドアである。これだけのスペ−スによく4人で乗れるものだと感心した。 

 これが、当時のドイツの学生の間で人気の的だったフランス・シトロエン社製の2CV(ドゥ・シェ・ヴォ)である。この国では、とぼけたような風貌と、車体が揺れる独特の走り方から、「エンテ(アヒル)」という愛称が付けられていた。確かに、その走りっぷりは、よちよち歩くアヒルにそっくりだ。

 もちろん乗り心地はベンツやBMWに比べるべくもない。細い鉄骨を組み合わせて、金属の板とガラス板をベタベタ貼ったような車体。カ−ブを急に曲がると、車体がキキッと大きく傾くのが感じられる。

 それでも、この車のユ−モラスな外見は、一度見たらもう忘れられない。車の形に合わせて上の方が丸くなったドア、戦前の車のような丸く大きなフェンダ−も、いかにも時代物という感じで、古めかしいヨ−ロッパの街角によく溶け込んでいる。

ギアチェンジのためのレバ−も、床やハンドルの後に付いているのではなく、運転席のダッシュボ−ドに突き出ている。このL字形のレバ−を押して、横にひねる形でギアを変えていく。クラシックカ−の好きな私は最初見た時から、すっかりこの風変わりなアヒルの虜になってしまった。

 ドイツでは、学生を初めとしてヒッピ−や左翼知識人など、「普通のドイツ人」の生き方とは違った道を歩いていた人々が、特に好んでこの車に乗っていたように思われる。2CVは、一味違うライフスタイルのシンボルだったのである。

80年代には、「原発はごめんです」などというステッカ−を貼られたり、サイケデリックな手描きの模様を全体にあしらったりした2CVをよく見かけたものだ。

 今年は、このアヒルが人々の前に姿を現わしてからちょうど50年目にあたる。1948年にパリで開かれた自動車見本市で、シトロエン社が現在の型式の2CVを初めて発表したのである。

 2気筒エンジンを搭載した当時の2CVはわずか9馬力。無理もない。2CVは、もともと「傘をさした4つのタイヤ」としてこの世に生まれてきたのだから。この車は、戦前に当時のピエ−ル・ブ−ランジェ社長が、「4人が乗って時速50キロで走ることができ、卵がたくさん入った篭を載せても卵が割れない」ような軽乗用車として開発を命じたものである。

1948年に初めて新型2CVが登場した時には、奇妙な恰好と薄っぺらい車体を見て「なんだこれは?」と嘲笑する人もいた。しかし、この車はその後ヨ−ロッパだけでなく世界中で大変な人気を博し、実に42年間にわたってほぼ同じスタイルで生産されることになるのだ。

 2CVは次々に改良を重ねられ、最後には29馬力のパワ−を持ち、最高時速110キロまで出せるようになった。また極限的な状況でもよく長距離走行に耐えるだけの性能を持っていたようで、1958年にはこのアヒルにまたがった二人のフランス人が、2250時間をかけて、5つの大陸・8つの砂漠を通って10万キロを走破するという快挙を実現している。

 1905年に設立されたシトロエン社の長い歴史の中でも、2CVは世界的に最も名前を知られた車となった。特にフランス人たちにはこよなく愛され、あるファンはこう書いている。

 「2CVは、製鉄所の労働者から首相、ビジネスマンから尼さん、郵便配達人から学生まで、社会のあらゆる階層の人たちに使われた。一度もこの車に乗ったことがないというフランス人はひとりもいない・・・このみにくいアヒルの子は、バゲット(フランスパン)やベレ−帽と同じように、わが国のシンボルとなっている」

 残念なことに、シトロエン社はフランス国内での2CVの生産を1990年に中止しており、現在はポルトガル以外では生産されていない。ドイツやフランスの街角でこのアヒルを見かけることも、以前に比べると少なくなってきた。

 それでも、人々の間の2CVに対する熱情は燃えさかる一方だ。フランスには、この車の愛好者のクラブが60もあり、「フランス2CVクラブ」という全国組織を形づくっている。パリにも「ジェネラシォン2CV」という団体があり、100人の会員が毎週木曜日の夜にバスチ−ユ地区のカフェに集まって、ワイン・グラスを傾けながら、アヒル談義に興じている。

特に2CV誕生からちょうど半世紀を迎える今年は、この団体が5月21日から3日間にわたり、パリで記念祭を開催。フランスや他のヨ−ロッパ諸国から2600台のアヒルたちが集まって、パリの大通りをパレ−ドした。実際、この車は一種の「カルト・カ−」になっていると言ってもおかしくないほど、人気が集まっており、ドイツなどの西欧諸国だけでなく、南アフリカ、イスラエル、アメリカ、ハンガリ−、ポ−ランドなど合わせて24か国にファン・クラブが作られている。

 同好の士たちは、インタ−ネットを通じて、2CVのスペア・パ−ツを買うことができる店の情報を交換し合ったり、この車にまつわる体験談を披露したりしている。あるホ−ムペ−ジでは、エンジンやブレ−キ部分の図解入りで、自分で車を整備して長持ちさせるために必要な工夫や注意点が紹介されている。

また日本にもアヒル・ファンは少なくないようで、今年9月には、生誕50年にちなんで50人のマニアたちが日光から足尾まで2CVを連ねてドライブを楽しんでいる。ある女性はフランスから2CVの形をしたクッキ−まで買ってきて持参したとのことで、熱心さには脱帽してしまう。

 実際、シトロエンというと最新型の車の名前は全然頭に浮かんで来ないで、まず2CVの姿が思い出される。(サクソとかキサラという同社の新車の名前は今回この原稿を書くために調べて初めて聞いた次第)同社にとっては、すでに生産を中止した車が一番世界的に有名という状態はあまり結構なことではなく、「アヒルだけでなく他の車も好きになってくれ!」と言いたい心境だろう。

 ともあれ、世界中の人々のアヒル信仰は、当分収まりそうにはない。その可愛らしい姿がいつまでも生き残ってほしいと思うのは、筆者だけではあるまい。

1998年11月18日 自動車保険新聞