2000年10月11日  保険毎日新聞掲載

人間が神を演じる時

 

生命科学は、我々の倫理感や法律が全く追い付けないほどの猛スピ−ドで、はるか前方を走っている。その典型的な例が、今年8月に英国政府の諮問委員会が行った提案である。

この委員会の科学者たちは、病気の治療目的に限り、人間の胎児の基幹細胞を使って、健康な臓器や組織を作り出すクロ−ン(複製化)行為を許可するよう、英国政府に勧告したのである。科学者たちは、現在は不治の病とされている病気の治療の上で、胎児の細胞が重要な役割を果たし得る可能性に気づいた。成人の細胞と異なり、胎児の基幹細胞は、特定の命令を与えれば、人間の臓器、器官、神経、血液細胞など300種類近い組織に成長できるという特徴を持っている。

そこで科学者たちは、人工受精で母親の胎内に入れられなかった余分な卵子細胞に、第三者の細胞核を植え込むことによって、細胞分裂を促し、14日以内に基幹細胞を取り出して、様々な組織に成長させ、病気の治療に使うことをめざしているのだ。たとえば、アルツハイマ−病の患者には、こうして作られた脳の神経細胞、肝硬変で肝臓の機能が低下している患者には、胎児細胞から作った新しい肝臓の組織細胞を投与することによって、治療が可能になるかもしれない。

問題は、細胞分裂を始めた卵子は、胎児つまり人間の初期段階だということである。治療のためのクロ−ンが、商業ベ−スに乗り、ビジネスとしての期待が高まった場合、患者に臓器や組織を提供するだけの「人工人間」あるいは「臓器家畜」が実験室で作られる危険がある。さらに、こうして第三者の細胞核を植え込んで細胞分裂が始まった卵子を、女性の胎内に入れれば、クロ−ン人間が誕生する。つまり、人間が人間を造り、神の役目を演じることも、もはやSFやおとぎ話の世界ではなくなっているのである。

このため胎児細胞を使った実験が法律で禁止されているドイツでは、科学者や神学者から、クロ−ン治療に反対する声が強い。しかし英国議会が諮問委員会の勧告を承認すれば、英国ではこの種の治療が可能になるし、こうして作られた胎児の基幹細胞が英国や米国からドイツに輸出されるかもしれない。

現在、動物実験ではこの種のクロ−ンが可能なことは実証されており、人間の耳が背中から生えているネズミの写真が公開されている。科学者でない私には、書いているだけでも不気味な世界だが、不治の病に苦しんでいる人には、クロ−ン治療は朗報であるに違いない。

このように一概に白黒を決められない問題だけに、クロ−ン治療の是非については、あらゆる角度から、早急に議論を煮詰める必要があると思う。(熊谷 徹・ミュンヘン在住)