激動化するドイツ政界をリードするアンゲラ・メルケル

 「国民は私の党にはっきりと政権を託しました。シュレーダー氏は、敗北したのです」。

CDU(キリスト教民主同盟)と姉妹政党CSU(キリスト教社会同盟)が擁立したアンゲラ・メルケル首相候補(51歳)は、9月18日のドイツ連邦議会選挙の投票終了後、こう宣言した。CDUCSUは35・2%の得票率で7年ぶりに第一党となったものの、シュレーダー候補のSPD(社会民主党)との差は、得票率でわずか1ポイント。メルケル候補は、伝統的な連立パートナーであるFDP(自由民主党)と組んでも、議席の過半数を確保できないという苦しい状況に追い込まれた。

 メルケルは、選挙後2週間にわたり、環境政党・緑の党やSPDと協議を繰り返した結果、10月10日にSPDとの間で、大連立政権を樹立することで合意に達した。大連立政権は、キージンガー政権以来、39年ぶり。この結果、ドイツ初の女性首相が誕生し、旧東独出身者が初めて連邦首相府の椅子に座ることになった。

 政治の世界に足を踏み入れてから、わずか16年で権力の頂点に到達したメルケルの半生は、ドイツでは珍しいサクセスストーリーである。彼女は、ドイツ統一後、最も成功した旧東独人の一人と言えるかも知れない。メルケルは、1954年にハンブルクに生まれたが、プロテスタントの牧師だった父親が、家族とともに東独に移住したため、社会主義国で青春時代を過ごすことになった。

メルケルは、ドイツの政治家には珍しく、当初科学者になる道を歩んできた。ライプチヒ大学で物理学を学んだ後、ベルリン科学アカデミーの物理化学研究所で、量子化学を専門とする研究員として働き、博士号まで取っている。社会主義時代に、政治的に活躍した形跡がないのは、研究生活に没頭していたためであろう。

 だが1989年のベルリンの壁崩壊は、メルケルに強い衝撃を与え、その一生を大きく変えた。同年末に彼女は新政党DA(民主主義の夜明け)に加わる。翌年3月に東独人民議会で最初の選挙が行われた後、デメジエール政権で副広報官となった。メルケルは、より大きな政治の舞台に出るために、CDUに入党。1990年12月に、統一ドイツ初の連邦議会選挙で、旧東独・北部の第15選挙区から出馬し、初当選する。

当時西ドイツの首相だったヘルムート・コールは、彼女の政治家としての潜在的な力に早くから目をつけ、中央政界の経験がない若手議員に、いきなり閣僚ポストを与える異例の抜擢を行った。メルケルは1991年に連邦婦人青少年省の大臣に就任、次いで連邦環境大臣のポストを与えられた。

政治の世界に足を踏み入れてから、わずか2年で中央省庁の大臣になるというのは、ドイツ統一という激変、そしてコール首相の強力な「引き」がなければ、考えられない。社会主義時代に政治に関わっていなかったことが、メルケルが政治家としてのキャリアを築く上で、大きなプラスとなったのである。実際、メルケルは旧東独出身の政治家の中で、旧東独出身であることを最も強調しない人物と言われている。そのことが中央政界ではプラスにならないことを、敏感に察知したからである。またコールは、旧東独出身者に閣僚のポストを与えることで、旧東独の有権者の歓心を買おうとしたに違いない。コールがメルケルに「Madchen(お嬢さん)」というあだ名を付けていたことは、統一宰相が彼女をいかに軽く見ていたかを象徴している。

だが、お嬢さんが父親を倒す日がやってきた。そのきっかけは、1999年にCDUを揺るがした不正献金疑惑である。この事件でコール元首相は、1993年から5年間にわたり約200万マルク(約1億400万円)の献金を受け取りながら、法律で義務づけられた議会への報告を怠っていたことを認めた。当時CDUの幹事長だったメルケルは、党内で他の幹部の意見を聞かずに、「コールは党に多大な損害を与えた」として、党内最大の権力者を公然と批判する署名記事を、新聞に発表したのである。

不正献金疑惑に怒ったCDUの党員たちは、党の浄化任務を、このニューフェースに委ねた。メルケルは翌年4月の党大会で、96%の党員の支持を得て、党首に選ばれる。彼女は不正献金疑惑をスプリングボードとして、育ての親コールとの訣別を果たし、CDU初の女性党首となったのである。

ただし、猛スピードで出世したことに対する反発か、党内では有能なスタッフに恵まれておらず、党の重鎮ショイブレ(次期内務大臣)や、党内きっての経済通であるメルツからは背を向けられている。2003年の米軍のイラク侵攻直前に、メルケルが米国を訪れてブッシュ政権を全面的に支持したことは、反米色の強いドイツでは失敗だったと見られているが、これも有能なアドバイザーがいなかったことの証拠であろう。

不正献金をめぐるエピソードは、法と道義に背いた者に対しては、それが仮に自分のパトロンであっても、批判の矛先を向けずにはすまないという、メルケルの竹を割ったような性格を象徴している。歯に衣を着せない率直さは、極めてドイツ人的な性格だ。

 私生活でも、彼女は典型的なドイツ人である。メルケルは「都会だけに住む生活は嫌いで、田園地帯を散歩したり、別荘で庭仕事をしたりする時に、最もくつろぐことができる」と語るが、これは大半のドイツ人の感性とぴったり重なる。政務に忙殺される中でも、土曜日の夜だけは、自由時間を取る。化学の教授である夫のために作る夕食は、じゃがいものスープ、牛肉のカツレツといった典型的なドイツ料理。夫とコンサートへ行くのも楽しみの一つで、バイロイトで開かれる歌劇祭には、毎年欠かさず出かける。

 さて首相の座につくことになったメルケルにとって、その前途は茨の道である。投票日のわずか2週間前には、大半の世論調査で「メルケル率いるCDUCSUの得票率は44%前後、SPDは28%前後になる」と予想されていたが、実際にはメルケルは予想を9ポイント近く下回る得票率しか取れなかった。選挙後の調査によると、メルケルは特に女性の間で支持を集めることに失敗した。旧東独に住む33歳から44歳の間の女性有権者の中で、メルケルを支持したのは20%にすぎず、特に労働者階級に属する女性の42%がメルケルを首相に不適格と答えている。以前はCDUに投票していた有権者の内、実に110万人が、企業寄りの政策を掲げるFDPに票を投じ、64万人が棄権してしまった。

 その最大の理由は、メルケルがどのようにして政治を変えようとしているのかが、不透明なことである。選挙の最大の争点は、構造改革だった。ドイツでは失業者数が300万人と500万人の間を揺れ動く状態が、統一以来15年も続いており、特に旧東独には、就業可能者の5人に1人が路頭に迷っている地域がいくつもある。今年第1・四半期の経済成長率は、マイナス0・3%で、ユーロ圏全体の成長率を大きく下回る。財政赤字と公共債務も年々拡大し、かつての経済優等生は、「ユーロ圏の劣等生」となりつつある。その最大の原因は、手厚い社会保障政策のために社会保険料が高く、労働コストが世界でも最高の水準にあるため、企業が雇用を拡大できないどころか、生産拠点を労賃が低い中欧・東欧やアジアに移転する動きが加速していることである。シュレーダーへの支持が急落したのは、失業者の大幅削減と成長率の回復を実現できなかったためである。

 このため、誰が首相になっても、社会保障を大幅に削減し、労働コストを引き下げて企業の国際競争力を高める努力を避けて通ることはできない。たとえば公的健康保険を抜本的に改革したり、公的年金の支給開始年齢を、65歳から67歳に引き上げたりという、「痛みを伴う改革」が必要となっている。シュレーダーは、失業者への給付金を、大幅に引き下げたり、公的年金の支給額を実質的に引き下げたりするなど、社会保障削減策を実行したが、このこともSPDに対する支持を減らす大きな原因となった。

 「正直さ」を売り物にするメルケルは、自分が首相になった場合、痛みを伴う改革を実行すると明言した。たとえば財政赤字を解消し、失業保険料を引き下げるために、付加価値税を引き上げる方針を発表したが、一部の有権者の強い反感を買った。シュレーダーとのテレビ討論でも、メルケルは「政治を変える必要性」を訴えるばかりで、政策の具体性に欠けていた。他の閣僚に比べて政治の経験が浅く、党内では比較的孤立しているメルケルについて、指導力を疑問視する声も出ている。

今回の選挙で有権者は、与野党ともに過半数を与えることを拒否することによって、シュレーダー、メルケルの構造改革路線に対し、「ノー」の態度をはっきり示した。メルケルは、「国民の皆さんが、雇用や国の将来について、深く心配していることを、私は真剣に受け止めます」と語っているが、雇用を増やすには、社会保障にさらに深くメスを入れ、国民に生活水準の引き下げを強いなければならない。このジレンマをどう解決し、ドイツの経済成長を回復させるのか。さらに、意志決定に時間がかかる大連立政権の舵取りをどのように行うのか、メルケルの肩にのしかかる課題は大きい。(敬称略)

筆者略歴 熊谷 徹(くまがいとおる)

1959年東京生まれ。早稲田大学政経学部卒業後、NHKに入局。ワシントン支局勤務中に、ベルリンの壁崩壊、米ソ首脳会談などを取材。1990年からはフリージャーナリストとして、ドイツ・ミュンヘン市に在住。著書に「ドイツの憂鬱」(丸善ライブラリー)、「新生ドイツの挑戦」(同)、「住まなきゃわからないドイツ」(新潮社)、「びっくり先進国ドイツ」(同)など。

2005年12月 デイリータイムズ