ドイツは訴訟社会になるか?
「反差別法」が経済に与える影響
私はNHKの記者だった1988年に、米国で3ヶ月にわたり裁判官や弁護士、企業幹部らに取材し、誰もが誰をも訴える訴訟社会についての番組を、NHKスペシャルとして放映したことがある。日本やドイツと違って、市民の間でも訴訟が日常茶飯事である社会に、文化の違いを強く感じた。
今ドイツでシュレーダー政権が成立させようとしている「反差別法(Antidiskriminierungsgesetz)」について調べている内に、「この国も訴訟が多発するのだろうか」という問いが、私の頭の中に浮かんできた。
* 挙証責任の転嫁
この法律が成立すると、性別、民族、宗教、年齢、心身の障害、世界観、性的な嗜好などによって差別することは禁止される。特に重要なことは、契約関係や営業行為、経済活動にもこの法律が適用されて、差別を受けた人が訴訟を起こしやすくなる点だ。
たとえばシュレーダー政権の法案によれば、反差別法によって挙証責任が転嫁される。つまり、「差別された」と主張して企業などを訴える原告が、差別されたことを証明する必要はなく、訴えられた被告側が、「差別はなかった」ことを証明しなくてはならないのである。これは、企業側にとって非常に不利な法理である。
たとえば、ドイツで営業している日本企業が、ドイツ人従業員を解雇し、勤続年数が同じ日本人従業員は、雇用し続けたとしよう。この場合、ドイツ人の元社員が「民族によって差別された」として、日本企業を訴える可能性がある。
日本企業は、日本人ではなくドイツ人を解雇したのは、民族が理由ではないということを、書類などで立証しなくてはならない。解雇の決定過程についての書類などによって、裁判官の前でそのことを証明できない場合、企業は多額の賠償金の支払いを命じられる恐れがある。
* 保険料の違いは差別?
また日本人の家主が、アパートをアフガニスタン人ではなく、日本人に貸したとしよう。このアフガニスタン人は、「民族を理由に差別された」として家主を訴えることができる。この時に家主は、民族が決定の理由ではないということを、法廷で立証しなくてはならない。
特に反差別法に危惧を抱いているのは、保険業界だ。保険の世界では、過去の事故統計から、年齢層や性別などに従って、リスクをカバーするのに必要な保険料に差をつけるのが、ふつうだ。反差別法が施行されると、女性に対し、男性よりも高い自動車賠償責任保険料を請求することは、差別とみなされるかもしれない。
これらの事例から、企業や家主に対する訴訟リスクが増加することは間違いなさそうだ。
反差別法は、EU(欧州連合)の指令を国内法に制定するものだが、外国人など、社会の少数派に対する差別撤廃を叫んできた緑の党が政権の座にあることから、ドイツの法律はEUの指令よりも、差別の被害者の利益を重視したものになっている。
実際、シュレーダー政権は、連邦家庭省に、差別の被害にあったと主張する市民のための、保護機関を設置することも検討している。
* 経済への悪影響を懸念
ドイツの経済界や法曹界、野党からは、反差別法を強く批判する声が上がっている。CDU(キリスト教民主同盟)のハルトムート・コシュク議員は、「この法案は、経済活動に関する法律や官庁の障壁を減らそうという動きに逆行するものだ。
反差別法のために、雇用が減り、契約の自由が侵されるだろう」と述べ、法案が経済活動に著しい悪影響を与えるという見方を打ち出している。
こうした批判に対し、SPD(社会民主党)に属するオットー・シリー内務大臣は、閣議で法案を再検討するよう求めたと伝えられるほか、ヴォルフガング・クレメント経済労働大臣も「EUの指令よりも厳しい内容にするのは、いかがなものか」と述べ、法案の緩和に前向きな姿勢を示している。一方緑の党に属する議員は、内容を緩和することに反対している。
* 訴訟社会の危険は低い
さて仮に反差別法が施行されても、ドイツの司法制度は、米国と大きく異なるため、この国が訴訟社会に変質する危険は、低いと思われる。たとえばドイツには米国と異なり陪審員制度がない上、弁護士に対する成功報酬制度(contingency fee system)や懲罰賠償制度(punitive damage)も存在しない。
米国では、社会保障制度が不備であることが、訴訟が多発する原因の一つだが、ドイツでは比較的社会の安全ネットが整っており、訴訟などによって賠償金を請求する必要性は比較的低い。
* 決定過程の記録が重要
しかしながら、企業は、万一訴えられた場合に備えて、全ての顧客に関する価格などの決定過程を、これまで以上に細かく記録して、ファイルに保管することが重要になるだろう。つまり、経営者や家主にとっては、事務作業にかかる時間とコストが増加する可能性が強い。
ヨーロッパでも近年コンプライアンス(法令順守)やコーポレート・ガバナンス(企業統治)を重視する動きが強まっているが、反差別法の導入もその一環と言えるだろう。企業を監視する目は、ますます厳しくなっているのだ。
週刊 ドイツニュースダイジェスト 2005年7月1日