メルケル首相の軌跡
連邦議会選挙から2ヶ月余り経って、ようやくメルケル政権が正式に発足した。
この国で初めて、女性が首相になっただけではない。
旧東独出身者が連邦首相府の椅子に座るのも初めてのことである。
政治の世界に足を踏み入れてからわずか16年で、権力の頂点を極めたメルケル女史は、統一後最も成功した旧東独人だと言えるだろう。
メルケルは、ドイツの政治家には珍しく、科学者としての道を歩んできた。
ライプチヒ大学で物理学を学んだ後、ベルリン科学アカデミーの研究所で、量子化学を専門とする研究員として働き、博士号まで取っている。
だが89年のベルリンの壁崩壊は、メルケル女史の一生を大きく変えた。
同年末に彼女は新政党「民主主義の夜明け」に加わる。
翌年3月に東独人民議会で最初の選挙が行われた後、デメジエール政権で副広報官となった。
メルケルは、より大きな政治の舞台に出るために、CDUに入党。
当時西独の首相だったヘルムート・コールから目をかけられ、中央政界の経験がないにもかかわらず、いきなり閣僚ポストを与えられる。
メルケルは91年に連邦婦人青少年省の大臣、次いで連邦環境大臣になった。
政界入りから、たった2年で中央省庁の大臣になるというのは、ドイツ統一、そしてコール首相の強力な「引き」がなければ、考えられない。
コールは、旧東独出身者に閣僚のポストを与えることで、旧東独の有権者の歓心を買おうとしたに違いない。
コールがメルケルに「Madchen(お嬢さん)」というあだ名を付けていたことは、コールが彼女をいかに軽く見ていたかを象徴している。
99年に不正献金疑惑事件でCDUは揺れに揺れたが、当時幹事長だったメルケルは、「コールは党に多大な損害を与えた」として、党内最大の権力者を公然と批判する署名記事を新聞に発表し、「育ての親」コールと訣別する。
この事件がなかったら、メルケル女史がCDUの党首に選ばれることもなかっただろう。
ただし、猛スピードで出世したことに対する反発か、有能なスタッフに恵まれておらず、党内きっての経済通であるメルツ議員からは背を向けられている。
2003年の米軍のイラク侵攻直前に、メルケルは米国を訪れてブッシュ政権を全面的に支持し、反米主義の強いドイツでは、奇異の目で見られた。
こうした失敗は、彼女に有能な助言者がいなかったことの証拠であろう。
大連立政権では、政局の運営についてライバルSPD(社会民主党)に依存しなくてはならないという、大きなハンディキャップを抱えている。
財政再建、社会保障改革、失業者の削減など、難題も山積しており、メルケル首相が歩む道は険しいものになりそうだ。
週刊 ドイツニュースダイジェスト 2005年12月2日