ミロシェビッチの死
私は仕事で、しばしばボスニア・ヘルツェゴヴィナ共和国の首都サラエボへ行く。
そこでは、すでにバルカン戦争が終わって10年以上経っているのに、セルビア系武装勢力の攻撃で破壊されたビルがいくつも残っている。
団地の壁にも、銃弾や砲弾が当たった痕が、無数に残されており、激しい戦闘の記憶は全く消えていない。
市民と話しても、一つの国を形成していた同胞だったセルビア系住民と、イスラム系住民、クロアチア系住民が、突然銃をとって殺し合いを始めた内戦は、決して過去の物になっていない。
それだけに、セルビアの大統領だったミロシェビッチ被告が、国連の国際刑事法廷から有罪判決を受けないまま、ハーグの拘置施設で死亡したことを、私は残念に思う。
バルカン戦争については、スロベニアとクロアチアのユーゴスラビア連邦からの独立を、ドイツそしてEUが早期に承認したために、ボスニアのセルビア人勢力を刺激し、武装蜂起に走らせたという前段階があり、ドイツやEUにも責任がないわけではない。
それでも、ボスニアの地方都市スレブレニツアで、セルビア系武装勢力が、7000人を超えるイスラム系住民を虐殺したり、セルビア軍がコソボでアルバニア系住民を追放したり、クロアチアの古都ドゥブロフニクを砲撃したりしたことの責任は、重い。
その意味でセルビアの最高指導者だったミロシェビッチが、人道に対する犯罪をおかした事実は、隠しようがない。
国連の国際刑事法廷が、なぜもっと早く審理を進めることができなかったのかについても、批判の声が上がっている。
一連のバルカン紛争は、欧米の安全保障政策にも、大きな影を落とした。
米ソ冷戦が終わった後、20世紀のヨーロッパで、あのような残虐行為が発生したのは、驚きである。
特に欧州の主要国が、長い間有効な対策を取れなかったために、多くの住民が虐殺や「民族浄化」の犠牲となったことの責任は大きい。
国連、EUやNATO・北大西洋条約機構の危機管理能力には、大きな疑問が投げかけられた。
バルカン戦争、コソボ戦争ともに、米軍が重い腰を上げてセルビア軍勢力に対する攻撃を開始するまで、ミロシェビッチは交渉のテーブルに着こうとしなかった。
欧州諸国には自分の地域で発生した紛争を、独力で解決する能力がないことが、暴露されたのである。
武力を背景にしない外交工作がいかに無力であるかを、バルカン紛争は如実に示した。
ドイツ政府が、コソボでのセルビア軍の残虐行為や住民追放に歯止めをかけるために、他のNATO諸国とともに、戦後初めて主権国家に対する軍事攻撃に加わったことも、忘れられない。
スレブレニツアなどの虐殺に責任のあるムラジチ元将軍や、セルビア系武装勢力を率いたカラジチは、現在も逮捕されておらず、自由の身である。
その意味で、ミロシェビッチが残した破壊の軌跡は、ヨーロッパ人たちの記憶にこれからも深く刻まれていくに違いない。
週刊 ドイツニュースダイジェスト 2006年3月25日