ポーランド侵攻から70周年
今からちょうど70年前の1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドに侵攻した。当時ドイツ軍の宣伝中隊がプロパガンダ用に撮影した、有名な写真がある。10人のドイツ兵たちが、ポーランドの国章がついた国境検問所の遮断機を押し開けている。何人かの兵士たちは顔に微笑みすら浮かべている。彼らは自分たちの行く手にドイツ第三帝国の滅亡が待っていることを、まだ知らない。9月1日は、その後およそ5年半にわたってヨーロッパを荒廃させ、約6000万人の命を奪う第二次世界大戦の火ぶたが切られた日でもあった。
ポーランドは、第二次世界大戦で最も甚大な被害を受けた国の一つである。旧式な装備のポーランド軍は近代的なドイツの戦車部隊に歯が立たず、開戦からわずか18日間でポーランド政府は国外へ脱出した。
同国では1945年の終戦までにほとんどの大都市がナチスによって破壊された他、600万人もの市民が死亡した。この背景には、ポーランドに多かったユダヤ系市民がアウシュビッツ、マイダネク、ソビボール、トレブリンカなどの強制収容所で組織的に虐殺されたという事実がある。ポーランド市民の17・2%が第二次世界大戦の犠牲になったが、国民全体に占める死者の割合としては世界最高だ。
ポーランドの敵はナチスだけではなかった。ヒトラーとスターリンが結んだ独ソ不可侵条約に基づき、ソ連軍がポーランドに侵攻し、東半分を占領した。二頭の猛獣に挟まれたポーランドは、こうして戦争中に地図の上から消え去ったのである。ソ連の秘密警察は、ポーランド軍の将校らを逮捕して、「カチンの森」などで虐殺した。
私は戦争中にナチスドイツの捕虜になり、アウシュビッツに拘束されたが生き残ったポーランド人の元兵士と話したことがある。彼は「私はドイツ軍に捕われてアウシュビッツに入れられたので、まだ運が良かった方だ。もしもソ連軍に捕まっていたら、すぐに処刑されていただろう」と語った。「アウシュビッツに送られて運が良かった」という言葉は、もちろん本心ではない。そこには痛烈な皮肉と大国に対する怒りがこめられている。この言葉を聞いた私のポーランド人の知人は、大粒の涙を流した。
ポーランドは戦後もソ連を頂点とする軍事同盟ワルシャワ条約機構に組み入れられ、モスクワの圧政に苦しんだ。
ベルリンに建設が予定されている「追放被害者のための資料館」をめぐり、去年ポーランド政府がドイツの「追放被害者同盟」に対して激しい批判をあびせたことに表われているように、今なおポーランド人がドイツに対して抱く感情には複雑なものがある。ドイツ政府は今後もポーランドとの関係改善に努めるべきだろう。
ポーランド政府がイラクやアフガニスタンに戦闘部隊を派遣し、米国のために積極的に軍事貢献を行っているのは、ドイツとソ連という二大独裁国によって苦しめられた歴史を教訓にして、米国とのきずなを強めようとしているからだ。
ロシアでは今も議会制民主主義が育っておらず、不安定な国家である。南オセチアやチェチェンでのロシアの軍事行動を見てもわかるように、将来どのような突発事態が起こるかわからない。多くのポーランド人は70年前の惨劇を振り返って、「二度と大国には蹂躙(じゅうりん)されない」という決意を新たにしているに違いない。
週刊ニュースダイジェスト 2009年9月18日