欧州憲法・EU拡大とドイツ市民

チェコやポーランドなど10ヶ国がEU(欧州連合)に加盟して間もない、今年5月中旬に、ミュンヘンからプラハまで車で走った。国境付近では、まだ両国間の高速道路をつなぐ工事が終わっていないために、幅が狭い国道を走らなければならず、物資を運ぶ大型トラックで混雑している。

インフラの整備をまたずに、両国間の貿易量は着実に伸びているのだ。チェコでは市役所など至る所に、青地に黄色の星をあしらった
EUの旗が誇らしげに掲げられている。ナチスに占領され、戦後はソ連の勢力圏に組み込まれて苦しんだチェコが、「欧州への帰還」という悲願を果たしたことを実感した。

 

だが、各国首脳が手を取り合ってEU拡大を祝った映像とは対照的に、チェコの西隣のドイツでは、市民の反応は冷たかった。アレンスバッハ研究所が行った世論調査によると、ドイツ人の回答者の58%が、東方拡大の悪影響について危惧を抱いており、好意的に受け止めている人はわずか17%だった。EUの負担が増加すると答えた人は、70%を超え、回答者のほぼ半数が「EU拡大で、ドイツの生活水準が下がる」と答えている。

 

悲観的な意見が強い背景には、ドイツが景気停滞に苦しみ、失業率が10%前後に留まり改善しない中、企業が、高い法人税や社会保障費用を嫌って、業務を人件費が安いチェコやポーランドに移す動きに拍車がかかっているという現実がある。

たとえば今年春には、眼鏡メーカーの老舗ローデンシュトックが、生産施設の一部をドイツからチェコへ移すことを発表した。
DIHK(ドイツ商工会議所連合)が、1万社の企業を対象に行った調査によると、回答企業の18%が生産拠点などを国外へ移したほか、24%が今後2年以内に一部業務の国外移転を計画している。

 

最近の特徴は、国外へ移される業務が製造部門だけでなく、ITや経理などサービス部門にも広がりつつあることだ。企業コンサルタントであるロラント・ベルガーの調査によると、回答したドイツの主要企業の25%が、サービス部門の国外移転を実施している。

特に私が住んでいるバイエルン地方で、チェコとの国境から近い地域では、市民の間で「国境の向こう側に雇用が流れていくのではないか」という不安の声を聞く。(興味深いことに、チェコでも失業率は11年前の3・5%から現在では10・2%と高くなっている。国営企業の閉鎖やリストラの影響だが、国境のあちら側でも、市民は
EU拡大に対する感激よりも、失業や物価上昇に対する不安感を表わしていた。)

 

6月末にEU首脳が合意に達した「欧州憲法」についても、歴史的に重要な一歩と受け止めているのは、政財界の指導層や知識人に限られており、市民の関心は低い。欧州の政治・経済にとって欧州議会の重要性が高まっているにもかかわらず、

ドイツでも、6月13日に行われた欧州議会選挙の投票率が、前回に比べて約2ポイント下がって43%になったことも、市民にとって
EUがまだ遠い存在であることを、如実に表わしている。この憲法によって、25カ国にふくれあがったEUが機能不全に陥るのを防ぐことができるのかどうか、新しく選ばれる欧州大統領や外相は、象徴的な存在に終わらないのかという問題にも、答えは出ていない。

 

EU諸国は、形式面では「事実上の連邦」としての性格をますます強めているが、市民の間に「欧州人としてのアイデンティティー」を生むにはまだ相当の時間がかかりそうだ。

(熊谷 徹)エコノミスト 2004年7月13日号掲載