高齢者よりも国際競争力を選んだドイツ年金改革

「年金改革の目的は、勤労者に過度の保険料負担をかけず、高齢者に安心感を与えることであり、その目標を達成するためには、新しい法律が不可欠だ」。ドイツ連邦政府のU・シュミット健康・福祉大臣は、今年3月11日に連邦議会で公的年金の改革法案が可決された時に、こう語った。「年金持続法」と名づけられたこの法案は、ドイツが直面している年金危機に対する重要な処方箋であり、来年7月から施行される。

法案の最大の柱は、年金保険料率の算定方式を変更し、「持続性ファクター」という新しい要素を加えることである。この変更は、社会の高齢化と少子化によって、年金受給者一人を養う勤労者の数が現在よりも少なくなった時にも、年金保険料率が急激に高くなるのを防ぐことを目的にしている。

実際、ドイツの将来の人口には、警告信号が灯っている。出生率が、1・4前後と日本並みの低い水準に落ち込んでいるため、毎年死亡者の数が新生児の数を10万人近く上回っている。このため連邦統計局の推定によると、毎年20万人の移民を受け入れても、2050年の人口は、現在の約8200万人に比べて約700万人も減ると見られている。

人口減少は、年金保険制度の運営に深刻な影響をもたらす。現在ドイツでは100人の勤労者が44人の年金生活者を支えているが、2050年には100人が78人の年金生活者を養わなくてはならなくなる。

1991年には17・7%だった年金保険料率は、2003年には19・5%に上昇している。それにもかかわらず、一般会計予算の3分の1近くを、公的年金の補填に充てざるを得ない状況であり、現在の状態を放置すれば、年金保険料率の大幅な引き上げは避けられない。だが政府は、今後料率の引き上げが必要になっても、一定の値以下に抑えることを目標としている。たとえば2020年の保険料率は20%の上限値を、2030年には22%を超えてはならない。

日本での議論でも明らかなように、年金改革では、改革のしわよせを若者と高齢者のどちらに負わせるべきかが、常に大きな問題になる。ドイツに住み始めた1990年以来、14年間にわたって年金改革に関する議論を追ってきたが、ドイツ政府が最も重視しているのが、年金生活者ではなく、勤労者と企業の負担抑制であることは、明白だ。

そのことは、「年金持続法」の内容にはっきり表れている。政府は具体的な数値を明らかにしていないが、新しく導入される持続性ファクターは、勤労者と年金受給者のバランスが悪化するにつれて、支給される年金を減額する。

さらに、現在の制度によると年金給付開始年齢は通常65歳だが、失業した場合などは60歳になれば、年金を受けることが可能になっている。だが今回の法改正によって、将来はどんなに早くても、63歳にならなければ年金をもらうことができなくなる。また、年金の通常給付開始年齢を65歳から67歳に引き上げることは、今回は見送られたものの、引き続き検討が行われている。

またこれまでは17歳以降の就学期間を3年間まで、年金保険料を支払ったと仮定する「見なし期間」として、保険料の支払年数の中に算入することができたが、この制度も廃止された。さらに公的年金は年金生活者の介護保険料の半分を、負担していたが、この制度が廃止され、今年からは年金生活者が全額負担させられることになった。

ドイツ政府によると、年金改革が実施される前には、45年間にわたり年金保険料を納めれば、退職時の手取り所得の69%を受け取ることができた(モデル年金水準)。だが実際には45年間働き続ける市民はあまりいないので、実際の平均年金水準は、退職の手取り所得の53%前後だった。シュミット大臣は、今回の法案可決にともない「53%を維持することは不可能」と断言している。

さらに、来年からは年金への課税も実施されることが決まっている。このため大臣は、年金生活者と勤労者のバランスが急激に悪化して、年金水準がさらに低下するのを防ぐために、一種の「最低年金比率」を設定し、2020年の時点でも税引き前の公的年金の平均水準が、退職時の手取り所得の46%を割らないように配慮すると説明している。

政府がこれだけ厳しい措置に踏み切った背景には、シュレーダー政権が2001年に実施した第一次年金改革が、十分に効果を上げなかったという事実がある。この改革では年金算出方式の改定によって、モデル年金水準を69%から67%に引き下げるかわりに、民間の年金保険の購入を補助金によって促進する、「リースター年金」が導入された。この制度は公的年金に民間活力を導入するものとして注目されたが、蓋を開けてみると、補助金の申請手続きが複雑なことや、年金額が少ないことなどによって人気が高まらず、普及率は、補助金を受ける資格がある市民の約5%にとどまっている。

この結果、2004年の公的年金の赤字が80億ユーロ(約1兆400億円)に拡大することが判明し、シュレーダー政権は今年度の年金引き上げ率をゼロにするとともに、不測の事態以外には通常手をつけない、準備金の取り崩しを余儀なくされた。高齢者が介護保険料を全額負担することを考慮すると、これは年金の実質額が減ったことを意味する。年金の実質削減は、西独が建国されてから初めてのことである。

この「ゼロ回答」は、市民の公的年金制度への信頼を大きく揺るがし、シュレーダー政権への支持率は、今年三月の時点で23・8%という、低い水準に落ち込んだのである。

「2030年の年金保険料率を22%以下にとどめる」というシュレーダー政権の政策目標は、社会保障費用の削減を求めてきた財界の意向を強く反映したものである。ドイツでは日本と同じくサラリーマンや労働者の社会保険料の半分を雇用者が負担するため、保険料引き上げは人件費の高騰につながる。このためドイツの財界はシュレーダー政権の年金改革を高く評価しており、料率を引き下げる努力を続けるよう求めている。

BDA(ドイツ経営者団体連合会)のD・フント会長は「年金改革後もすべての社会保険料率を合わせると、42%という高い水準になる。政府は合計保険料が40%を下回るように、改革をさらに進めるべきだ」と語る。BDAは、「高い社会保険料は、労働費用を引き上げ、企業の国際競争力を弱め、雇用の拡大を妨げる毒である」と強調する。

実際、ドイツ経済研究所の調べによると、2002年の時点で、ドイツの加工業の労働単位費用は、ノルウェーに次いで世界で二番目に高く、米国を15%、日本を25%も上回っている。高い労働費用と税金を嫌って、生産施設を国外へ移す企業は後を絶たないが、今年5月のEU拡大によって、ポーランド、チェコなどが正式加盟すれば、産業の空洞化に拍車がかかることが予想される。高い人件費は、就業の機会を国外へ流出させ、10%という高い失業率が恒常的に続く原因の一つともなっているのだ。

これに対し、ドイツ労働組合連合会(DGB)は、今年2月に発表した声明の中で、年金改革に批判的な姿勢を打ち出している。特にDGBは、「2001年の第一次改革で実施された年金算定方式の変更と、今回の持続性ファクターの導入が両方適用されることによって、長期的な年金支給水準が引き下げられ、年金生活者の購買力が大幅に減らされる」として、持続性ファクターの導入に反対している。

また、失業した場合などに年金の繰上げ給付を受けられる年齢が、60歳から63歳に引き上げられる点についても、「企業は50歳を超えた人をほとんど採用せず、年配の就業希望者にとって雇用状況は極めて厳しくなっている」として、給付開始年齢を引き上げる場合には、企業が50歳以上の市民を現在よりも積極的に雇用するような、法的な枠組みを整備するべきだと訴えている。

実際、55歳から64歳の市民の就業率は、1970年には50%だったが、現在は35%前後に落ち込んでいる。DGBは、今回の年金改革が「年金保険料率を抑制する」という政治的な目標に固執するあまりに、給付額を減らすことだけを重視し、収入の改善を怠っていると批判。自営業者などを公的年金制度に強制加入させて、保険料納入者のすそ野を広げるべきだと主張している。

年金を含めたドイツの社会保障サービスは、70年代の高度経済成長期に大幅に拡充された。経済成長率がゼロもしくはマイナスとなっている今日、往時のような手厚い公的年金を国民に提供することはもはや不可能になっており、給付の大幅な引き下げは避けられない。

ドイツはアングロサクソン流の純粋資本主義とは一線を画す「社会的市場経済」を標榜しているだけに、公的年金が米国や英国並みの低い水準に削られることはないと思われるが、国民がこれまで以上に、自ら老後の蓄えをしなくてはならないことだけは間違いない。

思い切った年金改革に踏み切るには、タイミングも重要だった。この種の試みには反対することが多い社会民主党が、与党の座にあるからこそ、制度の創設以来最も大胆な年金改革が実現したのである。社民党の政治家としては珍しく経済界に太いパイプを持つシュレーダーは、伝統的な支持基盤である組合や、党内左派の反発を買っても、高齢者を犠牲にして、経済の活力を再生させるための道を選んだ。シュレーダーが2006年の選挙で破れて政権交代が起きても、保守政党はこの路線を継承するに違いない。

日本では厚生年金、健康保険などの合計保険料は2002年度で年収の約22%であり、ドイツよりもはるかに低い。しかし厚生労働省によると、現在の制度を変更なしに続けた場合、2025年に合計保険料が35%に達するという推計もある。

出生率の大幅な伸びや高い経済成長率が期待できなくなった今日、日本政府も、保険料率の伸びに歯止めをかけ、日本経済の国際競争力の低下を避けるためには、年金給付水準を減らすなど、ドイツ並みの思い切った措置を取らざるを得なくなるのではないだろうか。

毎日新聞社 エコノミスト 2004年5月11日号