週刊 エコノミスト 2003年9月30日号掲載
米国への不信 − 見つからないイラク大量破壊兵器 熊谷 徹
イラクでは、米軍に対するゲリラ戦が続いているほか、爆弾テロで国連特別代表やシーア派の最高指導者が殺害されるなど、治安が悪化しつつある。イラク戦争が残したもう一つの大きな問題は、ブッシュ大統領が今年5月1日に「イラクでの主要な戦闘は終わった」と宣言してから4ヶ月以上過ぎているのに、戦争の最も重要な大義名分だった、核・化学・生物兵器つまり大量破壊兵器(WMD)が全く見つかっていないことである。兵器だけではなく、イラクが1998年に国連の査察への協力を拒否し、査察チームを国外退去させて以来、同国がWMDの研究、開発、製造を行っていたことを明確に示す証拠も、発見されていない。
ブッシュ大統領は去年10月7日にオハイオ州で行った演説で、こう述べている。「イラク政府は炭疽菌などの病原体を、3万トン以上製造し、マスタード・ガス、サリン、VXなどの化学物質を数1000トン製造している」。
「WMDの危険は、米国および世界の国々にとって、刻一刻と増大している。我々は、サダム・フセインが今日もWMDを持っていることを知っている」。
このように米国政府の高官たちは、開戦に至るまで、演説や報道機関へのインタビューを通じて、イラクがWMDをテロリストたちに供与し、WMDが米国に対する攻撃に使われる危険がきわめて大きく、差し迫っているかのような印象を米国民に与えてきた。9・11事件のショックが癒えておらず、テロの不安に怯える米国市民の半数以上は、イラク戦争を、国際テロ組織に対する戦いの一環ととらえ、ブッシュ政権を全面的に支持したのである。ところが、現在では米英政府のイラクの脅威に関する発表に虚偽の情報が含まれていたり、一部の内容が誇張・歪曲されたりしていたことがわかっている。
ドイツ政府は開戦前からフランスとともに、イラクのWMD保有やアル・カイダとの関係については根拠が薄弱だとして、武力行使に反対してきた。ニューヨークに駐在するドイツ政府のG・プロイガー大使も、高層ビル街を見下ろす執務室で、国連安保理の決議なしに武力行使に踏み切った米国政府について、批判的な口調を隠さなかった。「戦争を拒否し、査察を優先させるというドイツ政府の方針は、戦争のリスクがプラスの面をはるかに上回るという予想に基づいていた。今後イラクの状況がどうなるかは誰にもわからないが、これまでのところでは、ドイツ政府の危惧が正しかったことを示す状況証拠がたくさん出てきている。イラクでは治安が回復していないし、イラクが保有していると言われていたWMDも見つかっていない。もちろんWMDが見つからないということは、イラクがWMDを持っていなかったという証拠にはならないが、その行方についての疑問は残ったままである」。
プロイガー大使によると、国連安保理では開戦前から、イラクのWMDに関して、米英の諜報機関がもたらした情報の信用性について、疑問の声が強く出されていた。実際、戦争後になって、そうした疑いを裏付けるような事実が次々に判明している。たとえば、ブッシュ大統領が今年1月に行った年頭教書演説の中で言及した「サダム・フセインがナイジェリアから大量のウランを購入しようとした」という情報や、英国政府が公表した「イラク政府は開戦後45分で、化学兵器で反撃できる態勢にある」という情報は全くの虚偽だったことがわかっている。このためプロイガー大使は、「安保理の多くのメンバーにとっては、戦争から数ヶ月経ってもWMDが見つからないのは、特に驚くべきことではない」と述べ、米国政府が開戦前に公表したWMD情報について、ドイツ政府が今も強い疑問を抱いていることを示した。
一方、私が米国でインタビューした政治学者らの間では、戦争に賛成か反対かを問わず、開戦前にイラクがWMDを保有していたと考えていた人が多かった。コロンビア大学で政治学を教えるR・ジャービス教授(写真左)は、戦争前から「イラクが核兵器を持っていても、テロリストに渡す可能性は低く、あえて戦争をするほどの安全保障上の脅威ではなかった」として、イラク攻撃には反対していたが、WMD自体の存在には疑いを抱いていなかった。「われわれのように戦争に反対していた政治学者も、イラクはWMDを保有していると考えていたので、この種の兵器が発見されないのは、実に不思議だ。WMDがなかったのならば、なぜイラクは国連の査察団を追い出したり、査察を妨害したりしたのだろうか」。
実際、客観的に見てイラクのWMD疑惑が完全に解消したとは言えない。開戦前まで国連の査察チームUNMOVICを率いていたH・ブリックス代表と、米国政府の関係がぎくしゃくしていたことは、よく知られている。だが米国に批判的だったブリックス代表ですら、今年3月6日に国連に提出した経過報告書の中で、イラクのWMDに関する申告にはつじつまが合わない部分が多いため、同国がWMDを隠していた疑いがあると指摘している。
たとえば、イラクはイランとの戦争中に、化学物質を詰めた爆弾を1万9500発投下したと申告していたが、別の文書から投下数は1万3000発であることがわかっており、6500発のありかが判明していない。またイラクは神経ガスVXの開発を行い、その生成に必要な化学物質を貯蔵していたことを認めているが、貯蔵された物質の行方がわからなくなっており、UNMOVICは「VXが兵器化されて貯蔵されている可能性がある」としている。
さらに、炭疽菌についてもイラクの申告内容と、製造状況に大きな食い違いがあり、「約1万リットルの炭疽菌が廃棄されずに、現在も残っている可能性がある」と結論づけている。これらの記述は、UNMOVICが「イラクのWMDをめぐり未解決の問題」としている29の項目の一部にすぎない。つまり、国連の専門家たちは、決定的な証拠が見つかっていなくても、技術者としての視点から、イラクにWMDはなかったと断定することはできないと主張していたのだ。
匿名を条件に取材に応じた国連職員は、「イラク占領軍による捜索にもかかわらず、これまでWMDが発見されていないことは、実に驚くべきことだ。イラクのWMDの廃棄に関する文書には、不明瞭な点が多い上に、生物・化学兵器の製造に使える物質に関する情報の提出を拒んでいたことを考えると、私は少なくとも生成に使用できる物質は発見できると思っていたからだ」と述べ、国連関係者の間でも困惑が広がっていることを示唆した。
米国でWMD拡散防止問題に携わる関係者には、「イラクのWMDは、もっと時間をかけなければ見つからない」と固く信じている人もいる。米国の軍備管理・軍縮局長を務めた経験を持つF・イクレ氏(写真右)はその一人である。「イラクほどの大きさの国で、WMDを隠したら、関係者の情報提供を受けずに発見するにはかなりの時間がかかるし、見つからない可能性もある。イラクの人々は今もバース党が権力に復帰することを恐れているし、米国に情報を提供すると、サダム・フセインの信奉者に殺される危険もある。したがって、米国はWMDに関する決定的な情報を入手できないのだ」
20年前から、核兵器がテロリストの手に落ちる危険を指摘してきたNGO「核管理研究所」のP・レーベンソール所長(写真下)も、「イラクはWMDや関連資材を地下に埋めた可能性が強いと思っている。隠匿場所を知っている人が通報しなければ、発見に時間がかかるのは当然だ。91年の湾岸戦争の後、イラクが養鶏場に見せかけていた、ある生物兵器の製造施設が見つかるまでに、4年もかかったことを思い出して欲しい」と述べる。そして、ブッシュ大統領に対する反感が、米国の多くの報道関係者を「WMDが見つからないではないか」という政府批判に駆り立てているが、イラクが構築してきた兵器プログラムの細部を知れば、WMDの存在を否定するのは、時期尚早だと指摘した。
だが、かりにWMDもしくはその原材料や製造施設が将来発見されるにしても、ブッシュ政権のWMDに関する説明が、戦争を正当化するだけの説得力に欠けていたことは明らかである。ジョージタウン大学のA・アーレント教授は、イラクに対する武力行使は、国連憲章違反だとして批判的な姿勢を取っている。「WMDが見つからないという事実は、イラク戦争の正当性を低める。この種の兵器が直ちに発見されないということは、イラクが戦争によって政権を転覆させなくてはならないほどの脅威ではなかったことを示している。もちろんサダム・フセインは人権侵害を繰り返した独裁者であり、彼が権力の座を追われたことは好ましいが、そうした人物を排除するのにブッシュ政権が取ったような方法を取るべきではなかった」。
カーネギー国際平和財団のJ・マシューズ理事長も、「イラクとアル・カイダの間に繋がりがあるという具体的な証拠は見たことがない。世俗的な独裁者であるサダム・フセインが、イスラム原理主義者のビン・ラディンにWMDを提供するという可能性は低く、イラクが米国にとって直接の脅威だったとは考えられない。今後は、独裁者がテロ組織にWMDを渡すという可能性について、これまで以上に徹底的に検証し、米国にとって何が直接の脅威であるかを、国民全体で議論する必要がある」と述べ、単に「可能性」を積み上げることによって脅威を誇大に宣伝し、戦争に踏み切る政策の危険性を指摘した。
イラク戦争は、米国がWMDによる大規模なテロを防ぐためには、ある国がテロリストにWMDを渡す可能性さえあれば、具体的な証拠がなく、国連安保理の大多数のメンバーが反対しても、単独で武力によって政権を転覆させる「予防戦争」に踏み切る国に変質したことを、はっきり示した。だが、政府がWMDの脅威を国民に説明する際に、ブッシュ政権のように、虚偽の情報の使用や歪曲、誇張をはばからないとしたら、国民は誤った判断材料を与えられることになり、民主的な意志決定過程の前提が崩壊する。
米国が「悪の枢軸」の一国と名指ししたイランの核施設について、西側諸国の間では「核兵器を製造するための施設ではないか」という懸念が高まっており、WMDをめぐる次の危機の予兆はすでに現われている。イラクのWMDが今後何年経っても発見されず、米国政府が脅威に関する情報を誇張することによって、国民や議会を戦争に同意させた責任をうやむやにするとしたら、米国市民と国際社会の「次の予防戦争」への抵抗はさらに強まるに違いない。