保険毎日新聞  2000年3月30日号掲載

グリコ事件の謎(上)    熊谷 徹

グリコ森永事件で、全ての犯罪行為の時効が成立した。

ヨ−ロッパとは全く関係がなくて申し訳ないのだが、私は以前放送記者だった時に、この事件について長期間にわたり取材したため、時効成立には一抹の感慨がある。そこで今回は番外編をお送りする。

昭和五十九年、私は兵庫県警察本部詰めの事件記者であった。三月十八日(日曜日)の夜は寒さが厳しく、私は西宮の安アパ−トで炬燵に入って本を読んでいた。そこへ会社のデスクから電話。「西宮で拉致事件があったようだ。現場へ行ってくれ」事件記者には夜も日曜日もない。タクシ−で現場へ駆け付けた。

主人が連れ去られたという家はかなり大きく、「江崎」という表札が出ている。近所の人に「誰のおうちですか」と聞くと「あんた、なんも知らへんのやな、江崎グリコの社長やないか」と言われて、驚愕した。閑静な住宅街は、県警刑事部の大型多重無線車や報道関係者の車でごった返す。

これが、日本でも例のない社長誘拐・脅迫事件の幕開けだとは、その時には夢にも思わなかった。この日以来四年間にわたり、グリコ事件の取材に明け暮れた。捜査一課長や刑事部長などの幹部に昼間に取材しても、重要な話は聞けないので、捜査本部の電気が消えてから、夜討ち朝駆けの毎日。彼らはたいてい、神戸や西宮の中心部からはるか離れた郊外に住んでいる。

彼らが家に戻るのは、夜十一時から午前零時頃。タクシ−の暗闇の中で、虫の声を友とし、二時間でも三時間でも待つ。それなのに帰ってきた刑事さんが酔っ払っていて、話にならないこともある。「どうしておれの家がわかった!」と怒鳴りつけられることもある。それから社へ戻って報告書を書き、朝は午前五時に家を出て、別の捜査員が出勤する時に一緒に駅まで歩いて話を聞く。マスコミの夜回りに対抗するために、秘密の宿舎に寝泊りして家に帰らない捜査員もいた。

私の方も事件発生から最初の三ヵ月は、一日も休みがなかった。他社の記者で、胃潰瘍になってタクシ−の中で血を吐いた人もいた。グリコの社員、江崎社長の家族にも直接取材した。またアングラ情報をもとに、大阪や京都まで足を伸ばして「容疑者」と目される人について周辺取材し、おっかない思いをしたこともある。

最も興奮したのは、ハウス食品工業に対する脅迫事件で、警察が報道機関と報道協定を結んだ時だった。誘拐事件でもないのに報道協定を結ぶのは、異例中の異例である。マスコミはその事件について報道しないかわりに、現金授受の瞬間に至るまで、捜査内容を詳しく教えてもらう。現金授受の日には、私も現場に展開していたが、犯人に振り回される警察と報道機関の姿が今も脳裏に焼き付いている。

この事件では、大捕り物について知らされていなかった滋賀県警の警察官が、現場近くで偶然犯人に職務質問したが、運悪く取り逃がしてしまった。上級職ではなかった滋賀県警の本部長が、この問題を苦にして焼身自殺を遂げ、グリコ森永事件で唯一の犠牲者となったたのが、今も不憫である。(続く)(熊谷 徹・ミュンヘン在住)

グリコ事件の謎(下)

今回もグリコ森永事件の時効成立にちなんで、番外編をお届けする。

私は昭和五十九年から四年間にわたり、放送記者として明けても暮れてもこの事件を取材していた。唯一の特ダネは、西宮の江崎邸近くのコンビニエンス・ストアに、犯人グル−プの一人が青酸入りの菓子を置いた際に、その店の防犯カメラのビデオに犯人が映っていることを、他社に先駆けてキャッチしたことくらいである。

これ以外は、他紙にぬかれっ放しだった。特に強かったのは毎日新聞大阪本社であり、他社の追随を許さないくらい太いパイプを、警察の中に持っていた。そのハイライトが、寝屋川市で犯人グル−プがアベックを脅して運搬役に使い、企業が用意した現金を奪取しようとした事件である。この事件で、犯人は警察が待ち構えていることを予想して、現場付近にいたカップルの男性を猟銃で脅し、現金を乗せた車を引き取りに行かせたのである。警察も全く予想していなかったトリックである。

ところが毎日新聞社は、警察が現場で一人の男を逮捕したところまでつかんでいた。(私は恥ずかしながら、この捕物劇を全く知らなかった)ところが、警察が事情聴取した結果、この男が犯人ではなく、犯人に脅されて現金を取りにいかされた被害者だったと知った時には、すでに「グリコ犯人逮捕」の巨大な見出しの載った早版の新聞が印刷されてしまっていた。毎日新聞社の情報源は、知り合いの記者に連絡できなかったのである。

翌日、兵庫県警の幹部全員が、この幻のス−パ−・スク−プの載った毎日新聞早版のコピ−を手にしていた。結果的には大誤報になったものの、捕まったのが被害者でなくて本当の犯人だったらと思うと、恐怖で総毛立った。大阪の新聞社の底力を感じた。それにしても、犯人グル−プはあれだけ大量の脅迫状や挑戦状、毒入り菓子を警察や報道機関に送り付け、多数の遺留品を現場に残し、何回も警察の捜査網に近づき、目撃までされながら(有名なキツネ目の男は、電車の中で捜査員からほんの数メ−トルの所に立っていた)、ついに逮捕されなかった。

脅迫状を打つのに使ったタイプライタ−の文字盤を、犯人がいつどの店で買ったかも判明したにもかかわらず、糸はプッツリと切れてしまった。今考えても、やはりきわめて特異な事案だったと思う。私の取材の経験からいうと、一連の事件の原点はグリコ事件であり、怨恨が底流にあるように思う。あれだけ執拗にグリコを脅迫しながら、ぴたりと攻撃をやめて他の食品会社に矛先を向けたのは不自然である。

昔から私には、犯人グル−プが帰ってくるような気がしてならない。彼らはどんな思いで時効成立の報を聞いたのだろうか。(熊谷 徹・ミュンヘン在住)