アイセック物語(2)

1980年に私が初めての海外研修旅行で働いたルール工業地帯は、鉄鋼など重厚長大産業が多く、大気汚染がひどかった。

また戦争中に、連合軍の空襲で多くの建物が破壊されたため、戦後に建てられた、安普請の無味乾燥な建物が多い。

またトルコ人など外国人労働者も多く、ドイツ人に最も人気のない地域の一つである。

(だからこそ、私のような東洋人に働き口があったのかもしれない)。

私は当時そんなことも知らずに、似合わない背広を着込み、毎朝デュイスブルク駅からローカル線に乗って、隣のオーバーハウゼンという、やはり物悲しい町に通う「にわか銀行員」として働き始めた。

配属されたのは、ドイツ銀行オーバーハウゼン支店の国際課。当時外国への商品輸出の代金決済には、テレックスが使われていた。

私の仕事は、まず原稿を穿孔(せんこう)テープに打ち、そのテープをテレックスに通して、情報を送信することだった。

ドイツ語で仕事をしたことにない私だったが、ヤーコブさんという初老の銀行員が辛抱強く業務の内容を教えてくれた。

ドイツ企業の研修では、研修生が積極的に質問をしないと、ただ放っておかれるだけで、何も教えてくれない。

私はテレックスの仕事がない時には、銀行業務についての本を読んだり、行員たちに質問したりして、時を過ごした。

研修生の世話役であるアイセック(経済学・経営学の学生のための国際機関)のドイツ支部の学生たちは大変親切で、毎週末ライン川下りや、ボン近郊のワインの産地への小旅行、郊外での焼肉パーティーなど、外国人研修生が退屈しないように、様々な催し物を企画してくれた。

こうした催し物を通じて、私は同じ町で働いていたフィンランド人、英国人、オランダ人の学生と仲良くなり、毎晩のようにビールを飲みに行って、つたないドイツ語で議論をしていた。

この時に知り合った友人たちとは、26年経った今でも付き合いがある。

多感な時代に独りで外国生活をすることは、極めて貴重な体験であり、渡航を許し、飛行機代を出してくれた私の両親には、深く感謝している。

特に印象に残っているのは、アイセックがベルリンへの、1週間のバス旅行を企画してくれたことである。

当時東西ドイツが分割されていたため、西ベルリンへ行くには、東ドイツを通過しなくてはならなかった。

壁で二分されたベルリンでは、国境の検問所「チェックポイント・チャーリー」で、1日ビザの発給を受け、初めて社会主義国に足を踏み入れた。

ドイツが米ソ間の冷戦の最前線である厳しい現実を、目の当たりにした。西ベルリンの大学教授たちとの討論会では、ある教授が「私たちは今でも東西ドイツが実現することを望んでいます」と言ったのを覚えている。

それから9年後に本当に壁が崩壊するとは夢にも思わなかった。(続く)

(文と絵・ミュンヘン在住 熊谷 徹)

2006年2月 保険毎日新聞