トルコ紀行10 イスラム国家を近代化した男

  イスタンブールの北側にある新市街。ボスポラス海峡に面して巨大なドルマバフチェ宮殿がそびえている。

伝統的なアラブ風の建築が多くどちらかといえばシンプルなトプカプ宮殿に比べると、華美な装飾が多く西欧のバロック風建築を模している。


実際この宮殿はオスマン・トルコ時代の末期に、「トプカプ宮殿は古臭い」と考えたスルタンが、1853年に完成させたもの。ひたすら大きさと豪華さを追求した建物には、背伸びをして西欧諸国に肩を並べたいというあせりが感じられる。

 宮殿のこぢんまりとした一室で、私は大きなトルコ国旗でベッドが覆われているのを見た。

今日のトルコを築いた建国の父、ムスタファ・ケマル・アタチュルクが1938年に死亡した部屋である。この部屋の時計は彼が亡くなった時刻、9時5分を指したまま止まっている。

 トルコ軍の将校だったアタチュルクは、1923年にオスマン・トルコ帝国を打倒して新しい共和国の初代大統領に就任した。

今日のトルコがあるのは、彼の業績である。最も大きな功績は政治とイスラム教を分離したことである。政教分離によって、トルコ政府は近代国家への道を歩み始めたのである。

イスラム教の政治への影響を弱めるために、首都をイスタンブールからアンカラに移した。さらにオスマン・トルコ時代には多くの男性が筒のようなトルコ帽(フェス)をかぶり、女性が外出する時には全身をチャドルという布で覆う習慣があったが、アタチュルクはこれも廃止した。

実際、イスタンブールではトルコ東部のアナトリアなどに比べると、スカーフで頭を隠した女性は少数派である。

 ベルリンのクロイツベルク地区に行くと、アナトリア地方からの移民などが多いために、イスタンブールよりも頭を布で覆ったトルコ人女性が目立つ。

 またアタチュルクはトルコ語のアラビア語による表記を廃止し、英語やフランス語のようなアルファベットによる表記を義務づけた。私のようにアラビア語の素養がない外国人でも今日トルコの地名を読めるのは、この改革のおかげである。

 オスマン・トルコの崩壊によって、一時は中東のほぼ全域と東欧の一部まで拡大した大帝国は消滅した。

そのかわりにトルコはアタチュルクの改革によって、地中海周辺のイスラム国家の中で近代化を成し遂げた唯一の国となった。イスタンブールの公共施設のあちこちでは、今もアタチュルクの写真が飾られているのを見かける。初代大統領は今も国民から尊敬を集めているのだろう。

彼は首都をアンカラに移してからも、イスタンブールで執務する時にはドルマバフチェ宮殿で働いていた。彼がボスポラス海峡を眺めながら抱いたトルコ近代化の夢は、着々と実現しつつある。(続く)

(文と絵・ミュンヘン在住 熊谷 徹)