今も深いバルカンの傷痕
ボスニア独立戦争の弾痕が町の至る所に残る、サラエボ。
今年6月14日、私はホリデーイン・ホテルである会議に出席していた。
すると、主催者が突然マイクで言った。「安全上の理由から、直ちにホテルから退去して下さい」。
参加者はぞろぞろとホテルの前の駐車場へ集まる。
玄関には、警察官が立っており、建物から離れるよう指示している。
私は知り合いのボスニア人に尋ねた。
「いったい、何が起きたんだ?」
「ホテルに爆弾をしかけたという匿名の電話があったらしい」
さらに話を聞いてみると、6月15日に、有名なロック歌手ゴラン・ブレゴビッチのコンサートがサラエボ市内のサッカー競技場で、戦争後初めてのコンサートを行う予定にしており、そのためにこのホテルに投宿していたのだ。
警察が5時間にわたり、ホテルの全ての部屋を点検する間、我々は中に入ることができなかった。
幸い爆弾は見つからず、いたずら電話とわかったが、なぜこんなことが起きたのだろうか。
1950年に、サラエボでクロアチア人の父親とセルビア人の母親の間に生まれたブレゴビッチは、「白いボタン」というロックバンドを結成し、ユーゴスラビアで最も人気がある歌手となった。
「彼のグループは、私にとってユーゴスラビアのローリングストーンズでした」。
クロアチア人の女性がこう言うと、スロベニア人の若者もうなずいた。
チトーが支配していたユーゴスラビアでは、どの民族からも等しく好かれていたブレゴビッチだったが、ボスニアのイスラム・クロアチア勢力とセルビア勢力の間で戦争が始まると、国外へ逃げた。
このため、彼はボスニアの一部の国粋主義者から「裏切り者」という烙印を押され、戦後は生まれ故郷の土を踏むことがなかった。
彼はパリで作曲家として成功を収め、アメリカ映画「アリゾナ・ドリーム」や、ユーゴ内戦を扱った映画「アンダーグラウンド」の映画音楽を作曲したことで知られている。
後者の映画では、トランペットを多用した、シンティ・ロマ(ジプシー)風の情熱的な音楽が、特徴的だった。
そのブレゴビッチが、今回、わかれわかれになっていた「白いボタン」のメンバーをかき集めて、内戦後初めてのコンサートをサラエボ、ザグレブ、ベオグラードで行ったのである。
ファンたちは熱狂し、各地で入場券はあっという間に売り切れたが、ボスニアの右派勢力には、彼の「凱旋公演」がおもしろくなかったのであろう。
ボスニアは少しずつ内戦の後遺症から立ち上がりつつあるが、人々の心の中では、殺し合いと憎悪による傷痕は、まだ完全に癒えてはいないのだ。
(文と絵・熊谷 徹 ミュンヘン在住)
保険毎日新聞 2005年7月