ヒットラーと日本人

ヒットラーの描いた絵が日本で展示されるというニュースをBBCのウエッブサイトで知った。

ヒットラーとユダヤ人画商を主人公にした新作映画の商業プロモーション活動の一環だという。

しかし、公の場でヒットラーの絵を見せるようなことはヨーロッパではありえない。

イギリス人はとりわけ第三帝国や“ヒットラー”のニュースに敏感で、あるとき同じBBCのサイトに“ヒットラー風の敬礼をした犬、逮捕される”という小さな記事を見つけて苦笑してしまった。

想像するに、その犬は飼い主から前足をまっすぐ高くあげることを教えこまれたのだろう。

ドイツでは公の場で市民がナチ風敬礼をすることは軽犯罪として罰せられるとはいうものの、犬に罪はない。

そんな些細なことでも躍起になってとりあげるイギリス人の姿を見るたびに、いまだ独裁者の悪夢から完全には覚めることができない現代欧州人の不安をあらためて感じた。

ヨーロッパでは、まるで二十世紀のすべての“悪”がヒットラー一人のせいだったかのようである。

“ヒットラーは生ける悪魔であった”であったためか、欧州では“ヒットラー隠し”にも結構、力が入っている。

公の場ではヒットラーを少しでも肯定的に描くことに即、警戒心をあらわにし、ドイツでは著作“我が闘争”は発行禁止。

“ナチ“なるものすべてにアレルギー反応を示しているようだ。もっともこれは外国からの非難に敏感であるためで、一皮むけば、古書店や骨董屋で少しねばるだけで、奥のほうから発禁本であるはずの“我が闘争”が出てくる。

 「案外、ヒットラーは絵がへたではなかったじゃない」以前、ヒットラーの数枚の絵を見たときしろうと目にはそう写った。ヒットラーとて血の通った人間だったのだ。

そう思うこと自体、「ヒットラーを“人間視”」することでふとどき千万!……ユダヤ人からすれば、それさえも許せない行為なのである。

個人的には、すべてを独裁者一人のせいにするべきではないと思うのだが。ヒットラーはなにも一人で総統にのし上ったわけではなかった。その背後には普通の顔をした国民が大勢いたのだ。

ヒットラー一人のせいにするのはかえって危険である。実際、戦後の復興期に第三帝国の罪を背負って厳刑を受けたのはほんの一部で、多くの人々がなにくわぬ顔で再就職した。戦後の人材不足ではやむをえないことだったのかもしれないが。「私たちはホロコーストの事実をまったく知らなかった」ということが、当時を生きたドイツ人の一般的な“事後解釈”だ。

しかし、1938年以降、ユダヤ人が排斥され、街角から徐々に消えていったことをどう解釈していたのやら。その後、日本のヒットラー展はユダヤ人団体からの抗議のため、中止になった。第三帝国の悪夢はいまだ風化していない。

(文・福田直子 絵・熊谷 徹 ミュンヘン在住)