トルコ紀行(4)東西分捕り合戦
イスタンブールで泊まった旧市街のホテルから歩いて5分の所に、ヒポドローム(競馬場)跡と呼ばれる道がある。
楕円形の運動場のようにも見えるこの環状道路では、この町がローマ帝国の首都だった時に、馬に牽かれた戦車の競争が行われた。映画「ベン・ハー」に描かれているようにローマ帝国の市民はこの戦車競争が大好きだったのである。
西暦532年には、競技で興奮した群衆が暴動を起こし、いわゆる「ニカの反乱」に発展。暴動を鎮圧するために、皇帝の軍隊がおよそ3万人の市民を虐殺した。
このヒポドロームの地下にはいまも犠牲者の人骨が多数埋まっているといわれる。
さてこのヒポドロームの真ん中にある公園に、エジプトの象形文字が刻まれた尖塔(オベリスク)が立っている。
これは紀元前にエジプトのファラオが作らせたものだが、4世紀頃にローマ皇帝テオドシウスがエジプトからコンスタンチノープル(イスタンブールの旧名)に運ばせた、一種の略奪美術品である。さらにその隣には青銅のパイプが二本からみあったような、緑色の円柱がある。
「蛇の柱」と呼ばれるこのモニュメントは、古代ギリシャの聖地デルフィにあったものを、ローマ皇帝がここに運ばせた。
これも一種の分捕り品であり、ギリシャ政府から返還要求が出てもおかしくはない。
あちこちの戦利品を持ち帰って首都を飾ったローマ帝国だが、自分たちも略奪の被害にあっている。
蛇の柱の南側にあるオベリスクは、テオドシウスのオベリスクとは異なり、表面がでこぼこになっており四角い石を積み重ねただけのように見える。このオベリスクの表面にはもともと金箔の板が張られていたが、13世紀に西欧諸国の十字軍がコンスタンチノープルを襲撃した時に、オベリスクの金箔を剥がして持ち帰ったために、このような哀れな姿になってしまった。
十字軍は聖地エルサレムをイスラム教徒から奪還することを大義名分としていたが、多くの参加者にとっては金銀財宝、美術品の略奪が目的だった。
十字軍が奪ったのは、これだけではない。ベニスを訪れた方ならば、サンマルコ聖堂の正面入り口上部に、ブロンズで作られた4頭立て馬車の彫刻が取りつけられているのを記憶されているかもしれない。
この馬車は元々コンスタンチノープルの競馬場に飾られていたが、1203年の第4次十字軍が盗んでベニスに持ち帰ったもの。1頭の重量が0・9トンもする馬の彫刻を4体、はるばるイタリアまで運ぶ略奪者のエネルギーには驚かされる。
欧州の様々な民族は、1500年前からこのようにして美術品の分捕り合戦を繰り返してきたわけである。イスタンブールは、一つの道、公園にもこのような激動の歴史が織り込まれたタイムマシーンのような町なのだ。(続く)
(文と絵・ミュンヘン在住 熊谷 徹) 筆者ホームページ http://www.tkumagai.de