六本木ヒルズ残像
3月30日の夕刻、東京では滝のような雨が降った。
この町の新名所である六本木ヒルズの正面玄関の前には、回転ドアに頭を挟まれて死亡した小学生を悼むために、花束や菓子、おもちゃが山のように積み上げられている。
この日は警視庁の捜査員が業務上過失致死の疑いで、六本木ヒルズの中の事務所を捜索していた。
夕方のニュースまでにはまだ時間があるため、玄関の脇では雨合羽を来たビデオカメラマンと助手たちが、雨がかからないように軒下に身を寄せて、所在なさそうに立っている。
土砂降りの冷たい雨と、回転ドアが幼い命を奪ったという重苦しい事実のせいで、「六本木」という華やかな雰囲気とはおよそ場違いな、陰鬱な空気がただよっていた。
コンクリートと鉄とガラスが支配するこの未来空間では、ほとんどの人は地図がないと目的の店に到達することができない。
ミュンヘンの田舎から出てきた私ばかりでなく、たくさんの人々が地図を片手にうろうろしているので、安心する。
ミュンヘンにもあるイタリアの喫茶店、ゼガフレードがあったので腰を降ろすが、まるで通路の一角に、壁際に押し付けるように無理やりテーブルと椅子を並べた感じなので、とても居心地が悪い。
なるほど、コーヒーが一杯300円で飲めるような場所は、あまり快適には作られていないのですな。
実際、日本で最も人気があるというチョコレートを置いた喫茶店「ル・ショコラ・ダッシュ」では、サイコロくらいの大きさのチョコレートが、一個700円だったそうだ。
ヨーロッパの庶民的な金銭感覚が全身にしみついている私としては、ひたすら唖然とするばかりである。六本木ヒルズを歩いていても、残念ながらあまり感動させるものがなかった。
こういう近代的な高層ビルは、ロサンゼルスにもニューヨークにも香港にもある。無機質な雰囲気が強く、個性が感じられない。私はゼガフレードでエスプレッソをすすっている時、ウィーンの美術史博物館の喫茶店を思い出した。
宮殿のように豪勢な建物の真ん中に、とても居心地の良い喫茶店が作られているのだ。大理石の床、そして高さが何10メートルもある円蓋(ドーム)と装飾。思わず見とれてしまう、優美さ。私にとっては、これこそが個性だ。
六本木ヒルズのゼガフレードやル・ショコラ・ダッシュで、美しさに感激する人はあまりいないだろう。機能性を重視するのは勿論よいことだが、もう少し美的なセンスや都市としての個性に注意を払う必要はないのだろうか。
東京では六本木だけでなく、初台、恵比寿など至る所に、この種の高層ビルが次々に建てられている。
我々はニューヨークをめざしているのだろうか。東京がニューヨークに追いつくことは、絶対にできないというのに。
私が今回の東京滞在でいちばん心が落ち着いた飲食店は、JR西荻窪駅の南側の、囲炉裏がある木造の焼き鳥屋さんだった。メガロポリス・トウキョウよ、きみはどこへ行くのか?
(文と絵・熊谷 徹 ミュンヘン在住)
保険毎日新聞 2004年6月8日