サラエボの銃声から90年
私はボスニア・ヘルツゴビナ共和国の首都であるサラエボに、毎年2回か3回は仕事で出かける。
私がいつも訪れる場所は、サラエボの中心街にあり、ミリャンカ川にかかるラティンスカという橋のそばである。
この橋に面したT字路は、ちょうど90年前の6月28日に、全世界を戦火に巻き込むきっかけとなった事件が発生した場所だ。
当時、ボスニアはオーストリア・ハンガリー帝国の一部だったが、後にユーゴスラビアになる地域の国粋主義者たちの間では、占領者に対する不満と憎悪が高まりつつあった。
この日、ハプスブルグ帝国のフランツ・フェルディナンド大公夫妻は、町に駐屯するオーストリア軍部隊を閲兵するために、自動車でサラエボの町を訪れていた。
この日の午前中、セルビアの諜報機関に支援されたテロリストが、大公の車に手榴弾を投げたが、運転手が機転をきかせて現場を逃げ去ったため、部下の軍人らが負傷しただけで大公は難を逃れた。
大公は、部下の反対を押し切って、病院に負傷者を見舞いに行くと言い張り、再びサラエボの町の中心部を通過した。
この際に運転手が道を間違えたために、方向転換しようとして停車した時に、19歳のガブリロ・プリンチープという高校生が、ブローニング型自動拳銃でオープンカーに乗っていた大公夫妻を射殺したのである。
怒ったオーストリアはセルビアに宣戦布告し、数百万人の命を奪う第一次世界大戦の火ぶたを切った。
初めて戦車や戦闘機、潜水艦、毒ガスなどの近代兵器が使われたこの戦いは、オーストリア、ロシア、オスマン・トルコという3つの大帝国をあとかたもなく瓦解させただけでなく、敗戦国ドイツがナチスという犯罪者集団を政権につけるための、重要なレールを敷くことになった。
さて社会主義時代のユーゴスラビア連邦では、刺客プリンチープは、オーストリアの支配階層の一人を倒した英雄として称えられ、現場に面した建物にこの出来事を後世に伝えるための博物館が作られた。
また政府は歩道にプリンチープの足型まで埋め込んで、テロリストの「業績」を称賛した。
だが1990年代になってボスニアがユーゴスラビア連邦から独立して、セルビア系住民とイスラム教徒・クロアチア人の間の対立が深まり、内戦状態になると、博物館は閉鎖され、足型も撤去された。
私が2年前に初めてこの現場に立った時も、全く目印がなく、埃っぽい道路に、旧式の路面電車が騒音を響き渡らせているだけであった。
だがサラエボ市当局は、近代史に興味を持つ観光客を引き寄せるために、現場に歴史的事実だけを伝える記念プレートだけを設置している。
多数の民族、様々な宗教が隣り合って生きてきたサラエボは、「欧州のエルサレム」と呼ばれることがある。
フェルディナンド大公射殺の現場は、この古都が経験した血なまぐさい歴史の中でも、特に象徴的な位置を占めているのである。
(熊谷 徹 ミュンヘン在住)
2004年9月2日 保険毎日新聞