イラクと米国の大誤算
イラク戦争によって、世界的に有名になった英語のスラングがある。
2002年12月21日、米国CIAのジョージ・テネット長官は、ホワイトハウスでブッシュ大統領に対して、イラクが化学兵器などの大量破壊兵器(WMD)を持っているかどうかについて、「心配することはありません。Slam dunk(スラム・ダンク)ですよ!」と言った。
スラム・ダンクとは、バスケットボールの試合で、背の高い選手が、簡単にボールをゴールに投げ込むこと。
つまりテネット長官は、イラクがWMDを持っていることは火を見るよりも明らかであり、侵攻すれば、その種の兵器をすぐに発見できると自信たっぷりに言ったのである。
しかし、実際にはイラクに侵攻した米軍は、WMDを発見することができなかった。
CIAが大統領にあげていたWMDに関する報告は、結局は状況証拠に基づくものであり、物証に基づくものではなかったのである。
毎年数10億ドルの予算を使っている、世界最強の情報機関が大統領に行う報告が、これほどずさんな物であったというのは、極めて驚くべきことである。
大統領はCIAのいい加減な情報に基づいて、自国民をイラクの戦地に送り込み、すでに2000人を超える戦死者を出したのである。
イラク側の死者についての公式発表はないが、数万人が犠牲になっていることは間違いない。
テネット長官は後に辞任したが、この自信に満ちたスラム・ダンク発言が、からぶりに終わったことが、理由の一つとなっている可能性が強い。
これまで9月11日事件とイラク戦争に関して、米国のCIA関係者や元テロリズム担当官らが書いた本を、10冊以上読んできたが、なぜ米国がイラクとの戦争を始めたのかについては、論理的に説明するのが難しい。
世界貿易センターを破壊されて動転したブッシュ政権が、アル・カイダとほとんど関係ないイラクに侵攻し、今も泥沼のような戦いを続けているのは、大きな誤算である。
治安がいまだに回復しないイラクに、10万人もの将兵を釘付けにされることによって、肝心のアル・カイダとの戦いがおろそかになっている。
ビン・ラディンは9月11日事件から5年近く経った今も、生存が確認されている。
アフガニスタンでは、タリバンの抵抗勢力が今年5月に反撃に出ており、米軍はこの国での戦闘もおろそかにすることができない状況だ。
過去の歴史をひもとくと、アフガニスタンとイラクに侵攻して、完全に平定した外国軍はない。
核危機をめぐって、米国が今度はイランと事を構えることになった場合、この超大国にとって、長期的に中東と中央アジアが、第二のベトナムにならないという保証はどこにもない。
(文と絵・熊谷 徹 ミュンヘン在住)保険毎日新聞 2006年6月