中東捕虜交換とドイツ秘密外交の勝利
今年1月29日、雪におおわれたボン・ケルン空港で、世界各国の諜報機関が熱い視線を注ぐ中、珍しい捕虜交換劇が行われた。
レバノンのテロ組織「ヒズボラ(神の党)」が拘束していたイスラエル人のビジネスマンと、イスラエル兵三人の遺体を引き渡すかわりに、イスラエルは29人の捕虜やテロ事件の容疑者を、ヒズボラに引き渡したのである。同時にイスラエル側は、ヨルダン川西岸地区で、拘束していたパレスチナ人ら400人を、釈放した。
米軍のアフガニスタン攻撃やイラク戦争に比べると目立たないこの捕虜交換は、ドイツの諜報機関が9年間にわたりイスラエル、ヒズボラ側と忍耐強く交渉を行った結果、双方から信頼を獲得したことを示す快挙である。交換劇の発端は、1995年にイスラエルのラビン首相(当時)が、コール首相との会談の中で、ヒズボラに捕らえられたイスラエル人の消息がわからないものだろうかと尋ねたことだった。その後ドイツの諜報機関であるBND(連邦情報局)の局長や連邦首相府の諜報問題担当官が、ドイツとベイルート、イスラエルの間を往復して両者と交渉を重ね、捕虜交換の実現に成功した。
イスラエルにとってイランの支援を得ているヒズボラは不倶戴天の敵であり、ドイツの仲介がなければ、今回の人道的措置は不可能に近かったと言える。ユダヤ教徒にとっては、たとえ死亡していても遺体を取り返すことが極めて重要であり、イスラエル軍は遺体を敵の手から取り返すことを重視している。ドイツ側の仲介者がこうした国民性を十分に理解するだけの繊細さをもって交渉に臨んだことが、成功の鍵の一つだったと見られる。
さらに、交換の実施される日の早朝にエルサレムで発生した自爆テロで、11人のイスラエル人が殺害されたが、捕虜交換はこの惨劇に影響されることなく、予定通り行われた。釈放されるパレスチナ人らの数に比べてイスラエル人の数が少ないことと並んで、イスラエル人にとっては不公平な取引と感じられたかもしれないが、交換が中断されなかったことは、ドイツ側が獲得した信頼の深さを物語っている。
多くのアラブ諸国から、米国はあまりにもイスラエル寄りと見られているため、今後地道な秘密外交によって中東和平交渉で成果をあげることができるのは、イスラエルともアラブともほぼ等距離にあるドイツかもしれない。
週刊 ドイツニュースダイジェスト 2004年4月9日