中央公論 2000年7月号 掲載
コール不正献金疑惑 ドイツ保守政治が迎えた戦後最大の危機
熊谷 徹
*政財界の黒幕
九九年二月上旬、深い雪に覆われたミュンヘン郊外の保養地。ここで私はドイツの政財界に隠然たる影響力を持つ、白髪の紳士に出会った。ヴァルタ−・ライスラ−・キ−プ。ドイツ最大の保守政党、キリスト教民主同盟(CDU)の財務担当役員として、二十一年間にわたり同党への献金など、政治資金の出入りを取り仕切ってきた。その時には、この人物がわずか九か月後に、ドイツの政界を揺るがす大事件の渦中の人になるとは夢にも思わなかった。
私がキ−プに出会ったきっかけは、彼が会長だった国際親善団体「大西洋の懸け橋」の主催する会議に招かれたことだったが、会場に行って、ドイツの経済団体の重鎮や有力金融機関・大手電機メ−カ−の幹部、元外務省幹部ら錚々たるメンバ−が顔をそろえているのに気づいた。流暢な英語を操るキ−プは七十三才という年齢にもかかわらず、米国、ドイツなどの間を精力的に行き来し、各国間の友好関係を強固にする活動を続けており、この会議もそうした努力の一環だった。キ−プのユ−モアをちりばめた語り口には、人を魅きつける力がある。また、その国際的な視点とリベラルな発想は、この世代のドイツ人としては際立っていた。ナチス時代の過去というデリケ−トな問題についても積極的に言及し、反省の態度を率直に表す。
彼が会長を務めた「大西洋の懸け橋」の名簿は、さながらドイツの政財界エリ−トの紳士録で、現役の国防大臣、ドイツ銀行の元頭取、ダイムラ−・クライスラ−社長らが名を連ねる。キ−プはコ−ル前首相やブッシュ元大統領もしばしば会合に招き、シュレ−ダ−首相とも、俺お前で呼び合う仲である。ミュンヘン郊外での会議の途中でも、NATOの幹部である将軍が、近くで開かれていた別の会合の合間をぬって顔を出し、キ−プの人脈の深さを印象づけた。日頃は表に現われない、ドイツのエスタブリッシュメントの世界を垣間見たような気がした。
それだけに、去年十一月にアウグスブルグ検察庁が、キ−プに対し脱税容疑で逮捕状を取った時には、綺羅星のような人脈との落差を感じて、意外に思った。保釈金を払って、留置されることは免れたものの、今年三月には脱税の罪で起訴された。彼に対する容疑は、国外逃亡中のロビイスト、K・シュライバ−から、九一年にスイスで現金一00万マルク(約五二00万円)を受け取りながら、税務署に申告しなかったというものである。
一見些末に思える脱税事件だが、政治的にはきわめて重大な副産物を生んだ。銀行口座や帳簿の分析などから、CDUが二十年以上にわたりヤミ献金をプ−ルするための秘密口座を、スイスなどに隠し持っていた事実が浮かび上がったのだ。キ−プは、秘密口座の存在を知らなかったと主張している。だが、不正献金の出納などを行ってきたCDUの元公認会計士が「すべてはキ−プの承諾を得てから行った」と述べている。このためキ−プは苦しい立場に追い込まれており、「大西洋の懸け橋」の会長も辞任した。
*戦後最大の政治スキャンダル
司法とマスコミの追及で、さらに大きな魚が地下水脈から顔を出す。四半世紀にわたってCDUの党首だったヘルム−ト・コ−ル前首相が、九三年から五年間に、約二00万マルク(約一億円)の献金を受け取りながら、その事実を役員会に隠し、法律で義務付けられた議会への報告を怠っていたことを認めたのである。十六年間首相を務め、東西ドイツ統一を達成した立役者として、世界に勇名を馳せた「ドイツの顔」が、意図的かつ計画的に法律を破っていたのだ。一地方都市の検察官たちがキ−プの現金受領を突き止めることで開けた「蟻の一穴」は、コ−ルの支配体制をくつがえす、戦後ドイツで最大の政治スキャンダルに発展したのである。
政党資金法によると、二万マルクを超える献金については献金者の名前を公表しなくてはならない。しかし、コ−ルは役員会の度重なる要請にもかかわらず「献金者との約束」を理由に名前の公表を拒んでいる。CDU役員会の調べによると、八九年から九八年までに同党が受け取った献金の内、献金者の名前が判明していない分は、約一二00万マルク(約六億二四00万円)にのぼる。CDUの現執行部は事実上コ−ルと訣別し、コ−ルは名誉党首の座を退いた。
不正献金による汚染はコ−ル一人にとどまらない。たとえば疑惑の徹底解明を約束していたW・ショイブレ党首自身が、武器商人シュライバ−から一0万マルクを受け取り、その事実を数か月にわたり隠していたことから、辞任に追い込まれた。
またCDUヘッセン支部は、八0年代から議会の目を逃れるために、スイスの秘密口座に約二000万マルク(約一0億四000万円)の政治資金を移していたことが明るみに出た。特に悪質なのは、CDU関係者が、この資金をドイツに還流させる際に「裕福なユダヤ人からの寄付」と嘘をついていたことである。同党は、ユダヤ系市民に対して謝罪することを余儀なくされた。この工作に関与したために議員を辞職したM・カンタ−元支部長は、連邦政府で内務大臣も務めた。自ら「法と秩序の番人」と称し、議会では万引きなどの軽犯罪への罰則強化を求める裏で、麻薬密売人を思わせる「資金洗浄」に加担していたことになる。
さてコ−ルは「不正献金は政治活動に使ったもので、私腹を肥やしたことはない」と言い張るが、献金者の名前を隠し続ける限り、贈収賄の疑いは消えない。連邦議会の調査委員会も、CDU関係者に対するヤミ献金に賄賂性があったかどうかを特に重視している。委員の一人であるH・シュトレ−ベレ議員は、次の二つの疑惑に特に大きな関心を寄せる。まずサウジアラビアへの装甲車輸出をめぐるドイツ政府の決定である。当初政府は「紛争地域への兵器輸出にあたる」としてドイツの兵器メ−カ−の輸出申請に否定的だったが、九一年に突然方針を変更して輸出を承認した。この裏には、武器商人シュライバ−が、兵器メ−カ−の意を受けて、ドイツ政府に現金攻勢をかけていた事実がある。実際、すでにシュライバ−は装甲車輸出をめぐり国防省の官僚に賄賂を贈った罪で起訴されている。彼はキ−プやショイブレにも現金を渡していた人物だが、職務権限がないことから、CDU幹部に対する贈賄は今のところ立証されていない。
もう一つは、フランスの石油企業が、旧東独の石油精製施設を民営化する見返りとして、九二年に旧東独のガソリンスタンド網を買収する権利を獲得し、多額の補助金を受け取った件。フランスでは、この民営化をめぐって石油企業からCDUに多額の金が流れたという情報があり、検察当局が捜査している。この件でも、キ−プはD・ホルツァ−というフィクサ−とともに、フランス企業が買収に成功するようドイツ政府に働きかけている。 興味深いことに、シュライバ−やホルツァ−は、いずれもキ−プが会長を務めた「大西洋の懸け橋」の会員だった。このエリ−ト組織が国際親善という崇高な目的を持っているにしても、取引のためには「実弾攻勢」もいとわないフィクサ−たちが、人脈を築く場にもなっていたようである。
調査委員会のシュトレ−ベレ議員(緑の党)は「これまで明らかになっている事実は、氷山の一角。もしも閣僚の収賄が立証されたら、CDUは政党として生き残ることはできなくなる」と意気込む。ドイツ版ロッキ−ド事件とも言うべきこのスキャンダルで、二五年続いた「コ−ル体制」にたまった澱(おり)の中から、どのような新事実が出てくるか、予断を許さない。
*ドイツ国民の失望
この国に十年住んでみてわかったことだが、日本人や欧州の他の民族に比べて、ドイツ人は法律や規則を重んじる傾向がはるかに強い。「ドイツ人は革命で駅を占領する時にも、切符を買ってから駅に入る」というジョ−クがあるほどだ。日常生活の中でも、なにかと法律や決まりを持ち出す人が多い。それだけに、今回の事件は多くのドイツ市民に強い失望感を与えている。
「コ−ル氏は、憲法よりも自分の与えた約束の方が重要だと主張しているが、このことは私には我慢がならない。朕は国家なりというわけか?もしも市民の代表である政治家が、法律に違反しても罪の意識を持たないならば、どうして一般市民は正直に法律を守らなくてはならないのか?」CDUのホ−ムペ−ジに殺到するこのような投書には、ドイツ人の落胆がにじみ出ている。
シュパイヤ−行政大学で、政治資金問題を専門とするH・フォン・アルニム教授も、献金疑惑が、市民の法律意識に悪影響を及ぼすことを懸念する。「今回の事件の傷はすぐには癒えない。コ−ルは泥臭い政治家だったが、少なくとも多くの市民から正直な人間と思われてきたからだ。ドイツ人は、まさかコ−ルが、法律や首相就任時の宣誓を意識的に破るとは、想像だにしなかった。これは、政治的なカルチャ−・ショックだ」
今回の事件で有名になった言葉に「名誉の言葉(Ehrenwort)」がある。コ−ルは自分の名誉にかけて、献金者の名前を言わないと約束した、つまり「名誉の言葉」を与えたからその約束を破ることはできないというわけだ。この態度を、CDUのF・プリュ−ガ−議員は厳しく批判する。
「不正献金について事実関係が完全に明らかにされるまで、我が党の再出発はあり得ない。難しい目標を達成するには、多少の法律違反もやむを得ないと考える者は、道徳について語る資格はないし、子どもたちに誠実さや正直さといった伝統的な価値を教えることはできない」
こうした発言から、ドイツ人の間に、この献金疑惑が単なる政治問題にとどまらず、価値観、道徳観まで左右しかねないという危機感が生まれていることが理解できる。
実際、コ−ルという偶像が崩壊したことによって、アデナウア−以来西ドイツの建設と繁栄に重要な役割を果たしてきたCDUは、結党以来最も深刻な危機に直面している。
マックス・ウェ−バ−は、支配者を三つのタイプに分類した。それは、1:法律に基づく支配者、2:父権のような伝統的な権威に基づく支配者、3:カリスマ的支配者の三つである。この三つの側面を一人の支配者が同時に持った時、独裁的な性格を持った、恣意的な政治が行われるとされるが、プリュ−ガ−議員は、コ−ルが統一を達成した時点でこの三つの性質を一身に集め、磐石の支配体制を固めたと考えている。コ−ルが政治目的のためには法律を破っても構わないと考えるようになったのも、そのためだというのだ。
だがCDUは四半世紀にもわたり、父親を思わせるコ−ルの巨大な体躯に抱かれて、我が世の春を謳歌してきた。今や象徴を失ったCDUは新しいアイデンティティ−を見つけなくてはならない。同党は再出発のために初めて旧東独出身の女性を党首に選んだが、その力量は未知数である。
*欧州統合の牽引役
コ−ルの権威が失墜したことは、特に欧州連合(EU)にとって手痛い損失である。この人物が、欧州で戦争の惨禍を繰り返すまいという願いから、欧州統合の機関車役として重要な役割を果たしてきたからだ。
一九三0年に生まれたコ−ルは、少年として第二次世界大戦中に空襲や疎開を経験した上、兄も戦場で失っている。彼が「欧州統合は戦争と平和をめぐる問題だ」と繰り返し発言した背景には、戦争の記憶があるのだ。さらに、故ミッテラン大統領との絆を深めることによって、不倶戴天の敵だったフランスとの友好関係を強固にした功績は大きい。
彼は通貨同盟の発足にヨ−ロッパで最も積極的な政治家の一人だったが、そのリスクも意識していた。多くのドイツ人にとって、マルクは戦後の経済復興と安定のシンボルだったからである。それでもコ−ルは欧州統合の推進に政治生命をかけた。「ドイツ人は、世界の中で独りではないことを知らなくてはならない。現在我々が、欧州統合の原動力となっていることは、他の国々が我々を信頼している証拠であり、我々はそのことを誇りに思うべきだ。欧州統合こそが、ドイツが二度と孤立しないための、最良の手段である」コ−ルの言葉には、西ドイツを築いてきた保守層の路線を、彼が忠実に継承していたことを表している。
それは、アデナウア−以来の「欧州の価値共同体に身を埋没させることが、ドイツにとって唯一の生きる道」という国是である。もしもコ−ルが、欧州統合にこれほど積極的ではなかったら、周辺諸国は東西ドイツ統一にはるかに強い警戒心を見せていたに違いない。その意味で、コ−ルの存在は周辺の欧州諸国にとってもドイツが独り歩きしないための保証でもあった。
もちろんCDUの若い世代を始め、社会民主党(SPD)や同盟90・緑の党もドイツの独り歩きを避けるという建国以来の方針を守ると発言してはいる。しかし彼らの大半は戦争を体験していない上、コ−ルほど影響力を持っていない。さらに欧州は、ドイツの献金疑惑とほぼ時を同じくして、これまで体験したことのない暗雲に覆われることになった。それは、オ−ストリアで右派政治家J・ハイダ−の率いる政党が、連立政権の一員として権力の座についたことである。
*ハイダ−台頭の衝撃
ハイダ−とは何者なのか。まず目につくのはその過激な発言である。州議会で「ナチス・ドイツは、まともな雇用政策を持っていた」と公言し、ドイツの武装親衛隊員の犠牲的精神や団結を称え、ナチスの強制収容所を「制裁のための収容所」と呼んだことがある。 九三年には、「オ−ストリアを優先せよ」というスロ−ガンの下に、外国人の権利の制限を含んだ十二の提案を行い、国民請願(一種の署名運動)を実施した。その提案は、外国人の不法滞在や住宅難などの問題が解決し、失業率が五%以下になるまで外国人の移住を禁止することや、学校の生徒数の中に外国人が占める割合を、三0%に制限したりすることなどを含んでいた。合法的に滞在している外国人にも、指紋押捺と外国人登録証の携帯を義務付けることを提案したこともある。 これらの発言は、極右勢力の主張と五十歩百歩である。もっとも、彼の発言はカメレオンのように変わるので、実体はつかみにくい。いずれにせよハイダ−が、大衆が聞きたいことを敏感に察知し、欧州でタブ−とされてきた、人種主義的、ネオナチ的発言をあえて行っていることだけは確かである。その意味で、大衆に迎合するには極右的な言辞もいとわない、危険なポピュリストと見るべきだろう。これまでハイダ−のようなデマゴ−グは、欧州のどの国にもいたが、これまでいずれも泡沫政党にすぎなかった。
問題は、そうした人物が率いる党に、去年十月の議会選挙で、オ−ストリア国民が二七%という驚異的な得票率を与え、連立政権の一員に押し上げたことである。なぜハイダ−は国民の支持を集めたのだろうか。
オ−ストリアでは、九0年代に入って鉄のカ−テンの崩壊と、旧ユ−ゴの内戦の影響で、難民や亡命申請者として流入する外国人の数が増えた。
ミュンヘン工科大学のH・ファスマンによると、オ−ストリアの外国人数は、七一年からの十年間には三七%増加したが、バルカン半島の内戦は外国人の流入に拍車をかけ、外国人の数は九一年からの六年間だけで、四二%増加している。また七一年から九七年までの間に、オ−ストリアの外国人の数は二四六%も増えている。
九八年の一月から九月に、ユ−ゴスラビアなどからオ−ストリアの国境を不法に超えようとして逮捕された外国人の数は、前年よりも二五%増えて、一三000人を超えた。亡命申請者の数も、前年の二倍に達している。東欧や中欧の旧社会主義国に隣接するオ−ストリアは、外国人の流入という形で、バルカンの動乱の影響をもろに受けたのである。
さらに、ドイツでは七一年から九七年までに、全労働者の中に占める外国人の比率は、九%前後で安定しているが、オ−ストリアでは六・一%から九・八%に上昇している。オ−ストリア統計局によると、同国の九八年の失業率は六・六%で、EUの平均(十%)よりも低い。しかし、オ−ストリアでは外国人の失業率が、オ−ストリア人に比べて一・四倍とそれほど大きな差がないことが特徴である。このことは、オ−ストリアの大衆の「外国人が職を奪っている」という妄想を強めているのかもしれない。
こうした社会の変化が、オ−ストリア人の不安感につながっていることを示すデ−タもある。同国の人口動態研究所がオ−ストリア人に対して行ったアンケ−ト調査によると、回答者の約五0%が「オ−ストリアには外国人が多すぎる」と考えており、三五%が外国人に敵意を抱いている。
つまりハイダ−は、外国人の流入に関するオ−ストリア国民の不安感につけこみ、「外国人よりもまずオ−ストリア人を優先するべきだ」というスロ−ガンの下に、民心を掌握することに成功したのだ。過去に排外的な政策を提唱した党が、政権の一翼を担うのは、ヨ−ロッパでも極めて異例である。「ハイダ−は過去にも極端な発言で叩かれると、しばらく首を引っ込めているが、再び勢力を盛り返した。今年三月に党首を辞任したのも、カモフラ−ジュにすぎない。ハイダ−は必ず首相の座を狙うだろう」九0年代にウィ−ンに駐在し、ハイダ−の動向を観察していた英国の外交官はこう分析する。
さらに歴史意識をめぐる問題もある。戦後、特に八0年代以降の旧西独が、ナチスの犯罪と正面から向き合い、教育や司法の面で過去との対決を積極的に行ってきたのとは対照的に、オ−ストリアではこうした努力が十分に行われてこなかった。
ヒトラ−は元々オ−ストリア人だったし、ナチスによる併合を歓迎した国民も少なくなかったにもかかわらず、戦後のオ−ストリアは「自分たちはナチス・ドイツに併合された被害者だった」という論理で、過去の対決は旧西ドイツに任せっきりにしてきたのだ。
歴史や外国人問題に対する鈍感さは、市民の態度にも表れている。私はこの国のレストランで相席になったオ−ストリア人の中年女性と雑談をしていた時に、この女性から「アジア人の顔は、欧州の街にはそぐわない」と面と向かって言われたことがある。先日もザルツブルグのレストランで、オ−ストリア人から「シュリッツ・アウゲン(目の細い奴)」と言われた。旧西独に比べると、外国人問題についての人々の感受性が低いのである。ハイダ−のナショナリズム思想の種子は、こうした国民感情と、過去との対決を怠ってきた精神風土という土壌に落ちた時に初めて、政権参加という実を結んだのである。
*飛び火の懸念
オ−ストリアの人口は約八一0万人で、ドイツの十分の一。面積も四分の一の小国である。それにもかかわらず欧州では、オ−ストリアの右傾化がドイツに飛び火することを懸念する声が出始めている。ウィ−ンで社会哲学を専門とするN・レ−ザ−教授は、ハイダ−はヨ−ロッパの構造を大きく揺さぶるかもしれないと警鐘を鳴らす。「”オ−ストリア自体は小さな国だが、そこで起きることは、のちに大国で起きることの予行演習かもしれない”という警句が現実の物になりつつある。ハイダ−現象は、今後ヨ−ロッパにふりかかってくる問題を象徴している」
*エリ−トと民衆の温度差
ドイツでも、外国人については似た状況があるため、隣国での右傾化を軽視できない。この国の人口に外国人が占める割合は九%で、オ−ストリアとほぼ同じである。九七年だけでもドイツには約二八万人もの外国人が移住している。七年前に比べて二・七倍の増加だ。また失業率は今年三月で一0・六%と、オ−ストリアよりもはるかに高い。
この国でも、鉄のカ−テンの崩壊によって、九0年代の始めに東欧などからの亡命申請者が急増した。ドイツの特異な点は、外国人の急増と時を同じくして、旧東独を中心に、極右勢力が外国人らに対して暴力をふるう事件が多発したことである。
九二年に極右が起こした暴力事件は、実に二六00件に達し、外国人ら十五人が殺害された。暴力事件の数は九0年に比べて八・六倍に増えたことになる。旧東独のロストクでは、亡命申請者の施設に放火するネオナチに、近くの民衆が喝采を送る一幕もあった。
この国では、ナチスの支配下で多くのドイツ人が外国に亡命して生命を救われた経験から、亡命申請に関する規定は、外国人に寛容な性格を持っていた。しかし極右政党が、外国人問題を利用して支持率を高めるのを恐れたドイツ政府と議会は、九三年に亡命申請者の流入を規制するために憲法を改正する。ドイツは、政治的迫害の被害者への寛容な態度に終止符を打ったのである。ミュンヘン大学のU・ベック教授は、これではドイツ社会が極右の暴力に白旗を掲げたようなものだと、法律改正を厳しく批判する。
「東西ドイツ人は、統一によって生じた不満のはけ口を、亡命申請者と外国人に見つけた。外国人の排斥を求める極右と、外国人を脅威と見る市民の間で、一種の共闘関係が生まれたのだ」
ドイツ政府は、「亡命申請者の数の削減」と「極右勢力への対抗」という二つの問題を組み合わせたため、暴力をエスカレ−トさせれば、憲法が改正され、外国人の数を制限できるという意識を極右に与えてしまったのである。
旧東独では、今も若い世代を中心に外国人への反感が強い。ここにはドイツの人口の二一%しか住んでいないにもかかわらず、九九年のドイツの極右による暴力事件七四六件の内、五0%は東側で発生している。
旧東独のある州で十四才から二一才までの青少年八00人を対象にしたアンケ−トによると、回答者の四七%が外国人に対する反感を抱いていた。ベルリン東部の職業学校の生徒の五六%が、極右政党を支持しているという調査結果もある。
この背景には、社会主義時代の東独が、西独ほど批判的にナチス時代の過去と対決しなかったという事実がある。東独では「ナチスの残党が生き残っているのは、資本主義国である西独。我々は、ナチスに抵抗した共産主義者の国」という論理が用いられたのである。過去の克服をおろそかにしてきたという意味で、オ−ストリアと事情が似ている部分もある。
旧西独でも、微妙な意識の変化を感じさせる出来事があった。それは、二年前ドイツの作家M・ヴァルザ−が文学賞の授賞式で行った講演に対して、市民が見せた反響である。彼は、アウシュビッツの悲惨さと、ナチスの暴虐に関するドイツ人の責任を認めながらも、メディアを通じた過去の克服の努力への批判ともとれる発言を行ったのである。
「マスコミから連日のようにナチスの過去に関する映像を見せられ続けると、私は抵抗感を抱き、目をそむけたくなる。マスコミがそうした映像を見せるのは、我々の心に刻むことが動機ではなく、ドイツが恥じるべき部分を道具として使っているのだ」
この講演の後、一000人を超える市民が、ヴァルザ−の意見に賛成する手紙を送った。彼は「過去との対決そのものを否定するつもりはなく、マスコミを批判しただけだ」としながらも、多くの賛同の声が寄せられたことについては、「私の講演が人々の良心を解放したのだろう」と述べている。
だが作家の意図とは別に、講演への反響は「ホロコ−ストについてドイツ人は悪者だと言われ続けるのはごめんだ」という一部の市民の隠れた本音を表現している。実際、ドイツ・ユダヤ人中央評議会の故I・ブ−ビス代表は、ヴァルザ−の演説を「過去を忘れようという危険な主張につながり、極右勢力に利用される恐れがある」と厳しく批判した。
*伝統的な保守勢力の衰退
このように、ドイツでも指導層が持つ批判的な歴史意識や外国人問題に対する鋭い感受性は、大衆にまで浸透しているわけではない。国際性が薄く、民族性を重視する排外的な市民層が厳然と存在する。彼らは基本的に多民族・多文化社会には懐疑的であり、外国人が増えることに不安を抱いている。また欧州統合にもさほど積極的ではない。ドイツでは国政レベルでの国民投票はないが、もしもマルク廃止について国民投票が行われていたら、ドイツ人の民衆はユ−ロを拒否していた可能性がある。
これに対しドイツの政財界のエリ−トは、雇用の三分の一を輸出に依存しているこの国にとって、ナチスの過去を厳しく批判し、民族色、国家色を薄めて欧州統合を推進することの重要性を理解している。コ−ルとキ−プはCDU内部ではライバルであり仲も悪かったが、かつての敵国との関係改善や、欧州統合を推進し、ドイツの対外イメ−ジを良くすることに尽力した点では、共通点を持っていた。
彼らは保守政党でありながら、実際の政治面では民族主義や国家色を薄めようとしていたようにすら思える。CDUの精神的なバックボ−ンであったカトリシズムも、プロテスタンティズムに比べると、国境を超えて共通の理念を追求する国際性が強い。敬虔なカトリック教徒だったコ−ルの両親は、ナチスに常に距離を置いていた。彼の母親は、ナチスの不買運動の呼びかけを無視して、ユダヤ人の店でパンを買っていたと言われる。
このように、ドイツでは庶民と政財界のエリ−トの間に、歴史や欧州統合、外国人問題をめぐって温度差があったにもかかわらず、極右勢力は泡沫政党の域を出なかった。CDUが、保守的な市民が極右政党に走ることを食い止める防波堤となっていたからである。保守的・右派的な考えを持ったドイツの民衆も、コ−ルに代表されるCDUによって、みごとに「御されて」欧州統合への道を進んできたわけである。
ところが、今その防波堤に大きな亀裂が生じている。欧州に身を埋めるというドイツの保守本流の道を歩んでいたコ−ルやキ−プら欧州のメトロポリタンたちが、献金疑惑で大きく傷ついたからである。ちょうど、ベルリンの壁崩壊後に、旧東独でホ−ネッカ−らの仮面が剥がされ、旧悪が暴露されたように、今旧西独ではコ−ル体制の裏側の腐敗していた部分が、白日の下に曝されつつある。庶民たちは、衣を剥がされた旧体制の名士たちに、大きく失望している。CDUの指導部が刷新されても、コ−ルらが去った後の真空状態は、すぐには埋まらない。
この政治スキャンダルが長引き、ドイツの伝統的な保守勢力の衰退にさらに拍車がかかった場合、長期的には、この国の右派的・保守的な市民がハイダ−のような「新右翼」を支持する危険もある。これまではあくまで理論的な可能性にすぎなかった危惧が、オ−ストリアでの自由党の政権参加で、現実の物になった。ドイツのネオナチは、すでに「ハイダ−は正しい」というスロ−ガンを使い始めている。EU加盟国の中でも、ドイツが最も厳しくオ−ストリアを批判している理由は、正にそこにある。
さらに、EUに批判的なハイダ−は、将来拒否権を行使して、ドイツが推進してきた欧州統合にブレ−キをかける恐れもある。EU諸国は自由党の政権参加に抗議して、政府との公式な接触を停止するなど「村八分」的な措置を取っているが、この政策はかえってオ−ストリア人を怒らせて、ハイダ−への支持を高める結果になっている。
地方分権の伝統が強いドイツにも、ブリュッセルのEU委員会に権力が集中することに批判的な勢力も存在する。ユ−ロが日一日とドルや円に対して弱まり、コ−ルら通貨同盟推進派の影響力が低下する中で、ドイツ国民のEUに対する不満が高まる可能性もある。 フランスの社会学者E・トッドは、ハイダ−の台頭によって、欧州におけるドイツ問題が再び息を吹き返したと警告を発する。
「ハイダ−の自由党は、汎ゲルマン主義を標榜しており、少なくとも中期的にはドイツに影響を及ぼす可能性があると懸念している。オ−ストリア人がドイツ人に対して、もはや過去の問題を気にする必要はないと呼びかける危険がある」
トッドは、献金疑惑に象徴されるCDUの混乱は、国際的な色彩の強いカトリシズムの影響力が弱まっていることを示しており、その結果、民族的な色彩の濃い「新右翼」が将来ドイツに生まれる可能性があると指摘する。彼は同時に、ドイツで外国人問題がさらに先鋭化すると予測する。ドイツは出生率の低下のために、将来外国からの労働力を現在以上に受け入れざるを得なくなるからだ。その際に、新しい右派勢力がハイダ−のように排外的な政策を打ち出すことによって、大衆の心にアピ−ルし、得票率を増やす恐れがあるというのが、トッドの危惧である。CDUの弱体化は、こうした流れを助長することに他ならない。ハイダ−現象が示したように、数の少ない政財界のエリ−トは、大衆の票の流れを押し止めることはできない。
この予測を悲観的にすぎると一笑に付すことはできない。CDUの若い世代は、すでに気になる兆候を見せ始めているからだ。
たとえばこの国では、ソフトウェアのデザイナ−など情報技術(IT)の専門家が大幅に不足している。このため今年初めにシュレ−ダ−首相が、インドなどEU域外からIT技術者二万人に特別に労働許可を与えることを提案した。これに対し。CDUのJ・リュトガ−ス元教育大臣は、州議会選挙の選挙戦で「キンダ−・シュタット・インダ−(インド人の技術者を導入するかわりに子どもにIT教育を)」という、排外主義を思わせるスロ−ガンを使い、批判を浴びた。
また、シュレ−ダ−政権はドイツで生まれたトルコ人など、外国人の社会への統合を促進するために二重国籍を認める方向で、法律の改正をめざしていた。ところがCDUは去年一月、二重国籍反対の署名運動を全国的に展開して、ドイツ市民から大きな支持を集めた。この運動に対しては、政府ばかりでなくCDU内部からも、「外国人の社会への統合を訴えず、単に二重国籍に反対する署名運動は、極右勢力を利する」という批判が出た。署名運動の結果、二重国籍の認可には、初めの案に比べて大きな制限が加えられた。
また現在ドイツでは、新しい移民法を制定し、毎年受け入れる外国人の数に上限を設定するべきかどうかという議論が行われている。これに関連して、献金疑惑に伴う指導部の刷新によって、連邦議会のCDU会派の院内総務に抜擢されたF・メルツ議員(四四才)は、「外国人問題に関する議論の中で、我々の世代はナチス時代の過去にとらわれるべきではない。我々は、受け入れたい人材の移住は認めるが、どのような外国人を受け入れたくないかも、はっきり言う。以前のドイツは、ナチス時代の過去への配慮から、はっきり物を言う勇気がなかった」と発言している。これは、ハイダ−の「外国人を何人受け入れることができるかを、自分で決定することは、国民の権利である」という発言と似ている。戦争を体験したCDU幹部からは聞かれなかった、歯に衣を着せぬ言い方である。
CDU幹部のこうした発言や政治活動には、大衆の外国人への反感を利用して、票を集めようとするハイダ−流のポピュリズムの匂いが漂っている。小さな国で始まった「予行演習」は、すでに大きな国に舞台を移し始めているのかもしれない。
献金疑惑とハイダ−現象がほぼ時を同じくして表面化したことは、戦後ドイツの伝統を守ろうとする政治エリ−トにとって、重大な脅威である。
献金疑惑によって弱体化したCDUが、コ−ルやキ−プが影響力を持っていた時代の感受性や「世界の中のドイツ」という志を打ち捨て、ただ得票率を上げるために、外国人問題に象徴される大衆迎合路線を強めるとしたら、ドイツの保守政党は変質し、その伝統は失われる。その時に始まるCDUの本格的な凋落こそが、今回の政治スキャンダルがこの国に負わせる最も深い傷であろう。