中央公論  2002年9月号 掲載

海外歴史教育事情 ドイツ編

統一後に教科書記述はどう変わったか                    熊谷 徹

二十世紀の末にドイツの歴史は、ベルリンの壁の崩壊、そして統一という急激な変化を経験した。ドイツが第二次世界大戦の戦勝国の管理から脱して、戦後初めて国家主権を回復したことは、この国の歴史教科書にも影響を及ぼしている。そこで「過去への旅」(ヴェスターマン社刊)という歴史教科書の内、現代史の部分が、ドイツ統一の前と後とでどう変化したかを調べてみた。比較には八一年版と九一年版を使った。

まず九一年版では、統一までの過程に関する詳しい記述が加わったため、第二次世界大戦から現在に関する部分が、大幅に増えた。統一前の教科書では、東ドイツの政治、経済、社会についての説明はわずか十三頁にすぎなかったが、新版では、二・六倍に増えて三四頁になった。特にベルリンの壁を越えようとして射殺された青年の写真、土地の国有化やシュタージ(秘密警察)の活動についての詳しい説明によって、社会主義国家の非人間性や矛盾が前面に押し出されている。またソ連の秘密警察が、終戦直後、親ナチ分子とみなしたドイツ市民ら二五万人を、ドイツ国内の強制収容所に監禁し、約七万人が死んだという記述も、統一前には見られなかったものだ。

統一直後の旧西ドイツでは、東ドイツ政府や社会主義体制の負の面を強調する報道や出版物が溢れたが、教科書のこの記述にも、そうした論調が反映されている。旧東ドイツ人の中には、この教科書を読んで、「一面的だ」と批判する人もいると思う。

さて、この教科書の中で統一後に生じた最も重要な変化は、終戦まではドイツの領土だったが、現在はポーランドやチェコになっている地域から、多数のドイツ人が強制移住させられた問題、つまりVertreibungについての記述である。ソ連軍の侵攻のために住居を追われたり、一九四五年からの六年間に、オーデル・ナイセ川以東の地域や、ズデーテン地方などから追放されたりしたドイツ人の数は、約一二00万人にのぼる。この内ドイツ本土に逃げる過程で、ソ連軍や、ポーランド人らの報復によって殺害されたり、寒さや飢えで命を落としたドイツ市民の数は、二五0万人に達している。統一前の「過去への旅」では、追放に関する記述は半ページほどで、あっさりとしか取り扱われていなかった。だが統一後には、追放を体験した人の報告や、ドイツ系住民に移住を命じる通達などが新たに追加され、記述がはるかに詳細になる。ポーランド人らが追放されるドイツ人に報復を加えた事実も記されている。

統一に際してコール政権は、オーデル・ナイセ以東地域の旧ドイツ領土問題に終止符を打った。ドイツ・ポーランド国境の不変を確認したことは、この地域から追放され全ての財産を失ったドイツ人は失望させたが、もしもドイツがこの問題を先延ばししていたら、ポーランドなど周辺諸国は統一に強く反対していただろう。だが一方で、国家主権を回復したドイツは、終戦の前後に多数の市民が東部地域から追われて被害者となった事実を、以前よりも詳しく、後世に語り継ぐことを決めたのである。

戦後ポーランドやイスラエルなどと共同で、歴史教科書の比較研究を行い、相互理解と宥和に努めてきた、ドイツのゲオルグ・エッカート国際教科書研究所さえ、「七六年に行った教科書勧告で、“追放”を“住民移動”と呼んでいたことは、不十分だった」と認めているほどである。さらに、ドイツ国内での空襲の被害についても、記述が詳しくなり、ドイツ人が被害者でもあったことが、統一前よりも強調されている。

ドイツは統一後「普通の国」への道を歩み出し、西側同盟での責任を果たすためには、コソボ危機に見られるように、他国への軍事攻撃にも参加するようになった。自国が加害者だっただけではなく、市民が被害者となったことをも強調する、教科書記述の変化には、ドイツのこうした外交・安全保障政策の転換と軌を一にするものが感じられる。もっとも、ナチスによるユダヤ人迫害などに関する記述は、「アンネの日記」の抜粋を加えるなど、統一前よりもむしろ詳しくなっている他、現在も反ユダヤ主義思想を持った極右勢力がドイツに存在することが言及されている。つまり自国の歴史を批判的にとらえる姿勢には、従来通り揺るぎがないことも、我々は無視してはならない。