聖なる休暇

復活祭の連休が始まる三月末。「アウトバーンA9号線、ミュンヘンとホルツキルヒェン間は三十キロの渋滞です」車のラジオから、交通情報が流れる。復活祭は、一年の内で最初の大型連休なので、イタリアやオーストリアへ向かう家族連れの車で、ミュンヘン周辺の高速道路は、大渋滞になる。「ノロノロ運転は不愉快だけれども、休暇にはちがいないし、だいいち会社に行かなくてもいい……」。

* 休むのは当然の権利

ドイツ人にとって、人生で一番大切な物はなにか?この国に十二年間住んでみて私が達した結論は、「休暇(Urlaub)」である。企業や役所に勤める人には、法律で三十日間の有給休暇が保証されている。会社員や公務員は、ふつう週末には働かないので、丸々六週間の休みである。しかも、上司の顔色をうかがいながら、「誠にすみませんが休暇を取らせて頂きたいのですが…・・」という感じで休暇を申請する人は誰もいない。三十日間の休暇は、すべて取るのが当然の権利と見られており、みな堂々と休みを取る。休暇申請書に休む日を記入して、上司のサインをもらうだけである。いや、むしろ従業員が三十日間の休暇を全て消化しないと、管理職は労働組合から「なぜ社員を休ませないのか」とにらまれる恐れがあるので、むしろ上司は社員がきちんと休暇を取るように奨励するほどだ。

休みを取らないで働いても、「やる気がある」とか「忠誠心がある」と思ってくれる上司はいないので、意味がないのだ。さらにドイツの労使間で決まっている労働時間は、旧西ドイツで週三七・四時間と短いので、午前九時から午後五時まで働くだけでも、所定の労働時間を超えてしまう。今日では多くの企業がフレックス・タイム制度を採用していて、従業員は残業した時間を、「時間口座」に貯めておくことができる。そして、この残業時間を消化するための代休(
Gleitzeiturlaub)を取ることも許されている。

さらに、前の年に消化し切れなかった休暇を、次の年の三月末まで繰り越すことを許す会社もある。こう考えると、一年の休暇日数が五十日、つまり十週間近くなることも、珍しくはないのだ。このほか、ドイツには復活祭など様々な休日が約十五日ある(宗教的な休日は、州によって異なる)。我々日本人にはちょっと想像もできないような状況だが、ドイツではまぎれもない現実である。

* 一度に六週間休む人も…

またドイツ人が休暇を取るのは、夏に限らない。子どものいる人は学校の都合で、どうしても夏やクリスマスに休むことになるが、そうでない人は上司がノーと言わない限り、好きな時に休暇を取ることができる。一年分の休暇を一度に取り、六週間休んで世界一周旅行に出かけた猛者もいる。また課長などの管理職もさすがに六週間の休暇をすべて消化しない人が多いが、二週間の休暇を年に二回くらい取るのは当たり前である。つまり、ドイツでは上司も含めて全員が交代で休むので、ねたみもなく、長期休暇は当たり前になっている。六週間は、働かなくても自動的に給料が出るのだから、休まないのは損なのである。

またドイツの職場では労働時間が短い割に、具体的な成果を上げることを求められるので、集中的に効率良く仕事を片付けなければならない。さらに日本のように集団の和を尊ぶ精神はなく、人間関係がギスギスすることも少なくないので、ストレスは大きい。このため管理職にとっては、社員がノイローゼになったり、転職したりすることを防ぐためにも、長い休暇によって気分転換をさせ、新しい気持ちで仕事にのぞんでもらうのは、重要なことなのである。私も十二年前にドイツで働き始めた時には、「よくこれだけ休んで経済や社会がスムーズに機能しているな」と思ったが、仕事だけではなく個人の生活を大事にするドイツ人にとっては、休暇はかけがえのない物なのだ。ある取材でインタビューしたドイツ人の女性裁判官が、「休暇とは人生の中で一番大事なものです」と言い切っていたのが、強く印象に残っている。

休暇についてのドイツ人の真面目さは、子どもの時にすでに始まっている。バイエルン州などでは、夏休みなどの長期休暇中に、学校が子どもに宿題を出すことを法律で禁止している。子どもたちがのびのびと遊ぶことができるようにという配慮なのである。夏休み中の学校での水泳教室などもあり得ない。山のように宿題を出された私の日本での夏休みを考えると、夢のような話だ。

* 世界一の休暇大国

ドイツ経済研究所が一九九九年の各国の有給休暇日数を比較した調査によると、ドイツの休暇日数はフィンランド、イタリア、オランダと並んで世界最高。日本の一・七倍、米国の二・五倍という多さである。ドイツの国民一人あたりの国内総生産は、日本の約八0%に満たないが、ドイツ人たちは休暇を減らしてまで、国を富ませようとは思っていないようだ。

その証拠に、政府はドイツ経済の国際競争力を高めるために、年金支給額や失業手当の切り詰めなど、社会保障サービスをどんどん減らしているが、休暇の日数を減らしてもっと働こうという提案だけは、聞いたことがない。政府は、休暇がドイツ人にとって、「決して手を触れてはならない聖なる牛」であることを知っているのだ。この国で休暇日数の削減に手をつけた首相は、次の選挙で確実に落選させられるだろう。

* 格安旅行も豊富に

さてほとんどのドイツ人は、休暇の大半を旅行につぎこむが、我々日本人のように一週間で七つの都市を見て回るような旅行ではなく、一ヶ所に腰を落ち着ける滞在型の旅行をする人が多い。旅行代理店に行くと、スペインのカナリア諸島、ギリシャ、ポルトガル、旧ユーゴスラビアなどの格安旅行プランを満載した、電話帳のように分厚いカタログが積み上げられている。私もこのような旅行プランを利用して、ギリシャのクレタ島へ行ったことがあるが、二週間のホテル滞在(朝・夕の食事付き)、往復の航空運賃、レンタカーすべて合わせて、一人約七六七ユーロ(約八万四千円)という安さだった。

これではミュンヘンで生活しているよりも、金がかからない。学生時代から毎年大旅行をしているドイツ人は、旅のプロであり、南米やアフリカ、ネパールでの登山、アマゾンでの冒険旅行からインドの砂漠での野宿やハウスボートによる川下りまで、日常生活から逃れるための手練手管については、実に詳しい。

* 自分を取り戻すためのオアシス

さてドイツ人は、なぜこれほど休暇を重視するのだろうか。ドイツで生活するとわかるが、ヨーロッパの様々な国民の中でも、ドイツ人の個人主義は、特に強い。他人と折り合いをつけるとか、他人の感情に配慮して妥協するのが、苦手な人が多い。そういう人にとっては、職場で好きでもない人々と顔を付き合せなくてはならないことは、ほとんど耐え難いことだが、金を稼ぐためには我慢せざるを得ない。したがって六週間の休暇は、多くのドイツ人にとって、自己を取り戻すための貴重な時間なのである。

あるドイツ人がこんなことを言った。「あなたたち日本人は働くために生きているように見えますが、我々ドイツ人は休暇を楽しむために働いているのです」。もちろんドイツ人にも例外はあり、働き蜂はいる。だが大半の市民にとっては、この言葉はあてはまると思う。かくて今年も「ドイツ民族の大移動」が始まる夏がもうすぐやって来る……。


NHKドイツ語会話テキスト