ベルリンの壁崩壊から20年−記憶の風化に抗して 

熊谷 徹

Heute vor 18 Jahren haben wir die Teilung Deutschlands endgueltig hinter uns gebracht. Das Unrechtsregime DDR war ueberwunden, denn seine Buergerinnen und Buerger hatten die Mauer zum Einstuerz gebracht.

Bei allem, was danach geschah; bei allem, was gelang, was schiefging: Was fuer ein Glueck ist und bleibt diese friedlich und mutig erkaempfte Einheit, was fuer ein Segen fuer unser Vaterland !

ちょうど18年前の今日、我々はドイツ分割を終わらせました。東ドイツの不法な政権は消滅しましたが、それは東ドイツ市民たちが壁を崩壊させたからです。その後成功したことも、うまくいかなかったこともありました。しかし一つだけ間違いなく言えることがあります。人々が平和的に、勇気を持って勝ち取ったドイツ統一は、なんという幸運でしょう。そして我々の祖国にとってなんという祝福をもたらしたことでしょうか!)(出典・Bundespraesidialamt=ドイツ連邦大統領府のホームページ)

これは、ホルスト・ケーラー連邦大統領が、去年10月3日にハンブルクでの統一記念式典で行った演説の一部です。東西ドイツが統一されたのは1990年の10月3日。ベルリンの壁が崩壊したのはそのほぼ一年前、1989年の11月9日でした。つまり今年はドイツを東西に分断していた壁が崩れてから20年目にあたります。

私は1989年の11月にベルリン・ポツダム広場で、身を切るような寒さの中、壁の一部を撤去して作られた臨時の道路の脇に立っていました。東ベルリン市民が車や徒歩で次々に西ベルリンにやってきます。

つい数週間前までは、想像もできなかった光景です。何という急激な変化でしょうか。私はこの光景を見て「ドイツと欧州は大きく変わろうとしている」と強く感じました。ケーラー大統領が述べているように、ドイツが統一された過程の中でベルリンの壁の崩壊は最も重要な出来事の一つです。

 東ドイツ政府が壁の建設を始めたのは、1961年8月13日。当時東ドイツでは社会主義体制に不満を抱く市民が次々に西側に亡命していました。その数は毎年10万人から30万人にのぼります。特に社会が必要とするエンジニア、医師、教授など専門知識を持つ人を失うことは、大きな痛手でした。西ベルリンは、東ドイツの中にぽつんと取り残された、西ドイツの飛び地だったので、多くの東ドイツ人が西側への亡命に利用しました。このため東ドイツ政府は労働力の流出を防ぐために壁を築くという強硬手段に出たのです。

 西ベルリンは第二次世界大戦の戦勝国である米国、英国、フランスによって管理されていました。一方東ドイツは、ソ連を盟主とするワルシャワ条約機構という軍事同盟の一員でした。米英仏は、ベルリンの分断を武力で阻もうとしたらソ連と戦争になると考え、介入しませんでした。西ベルリン市民は超大国に見捨てられ、多くの家族が西と東に別れ別れになってしまいました。壁はやがてベルリンだけでなく、東西ドイツが接している全ての地域に建設されます。

私は1980年に初めて西ベルリンで壁を見た時に感じた圧迫感を、今も忘れることができません。ベルリンの壁の全長は、155キロメートル。国境を警備していた兵士たちは、西側へ逃げようとする東ドイツ人を発見し、亡命を食い止める手段が他にない場合には発砲するよう命じられていました。

射殺された東ドイツ人の数は、ベルリンだけで約190人、ドイツ全体で約890人にのぼります。社会主義政権は、許可なしで西側へ逃げようとした東ドイツ人を国家の敵とみなし、同国人の手で射殺させたのです。冒頭でご紹介した演説の中でケーラー大統領が東ドイツ政府を「不法な政権」(
Unrechtsregimeと呼んだ理由の一つは、ここにあります。

 連邦議会が置かれている旧帝国議会議事堂(Reichstag)の裏、シュプレー川に面した鉄柵に白い十字架が取り付けられています。国境を越えようとして命を落とした東ドイツ人たちを追悼するためのものです。ベルリン市内には、所々ににこうした慰霊碑や追悼プレートが設置されています。

 しかし壁が崩壊してから20年目にあたる今年、町が分断されていた時代の記憶が風化していることを感じます。壁の大部分は撤去されているので、特別に保存されている壁を除けば、分断の爪痕を見つけることはできません。壁があった場所の路上に「ベルリンの壁(Berliner Mauer)1961年―1989年」と書かれた敷石が置かれているだけです。

 去年ベルリン自由大学が全国の若者たちを対象に行ったアンケートの結果は、衝撃的でした。「壁を建設したのは西ドイツだった」と答えた東ドイツ人がいたのです。また、旧東ドイツの回答者の半分が「社会主義時代の東ドイツは独裁国家ではなかった」と答えています。

わずか20年足らずの間に、こんなに誤った認識が広まっているというのは驚くべきことです。東ドイツは共産党だけが実権を握っていた独裁国家であり、政府を批判する論文を発表するだけで刑務所に押し込められる危険がありました。

 今年ドイツでは壁崩壊という歴史的な出来事を思い起こす式典が行われたり、テレビや新聞が集中的な報道を行ったりする予定です。壁で分断されていたベルナウアー・シュトラーセ(Bernauer Strasse)一帯を、「ベルリンの壁を思い起こすための記念施設」として整備する計画も進んでいます。ミッテ区とヴェディング区の境であるこの通りには「ベルリンの壁について考えるための資料センター(Dokementationszentrum Berliner Mauer)」という施設もあり、分断の歴史について学ぶ上で最も重要な場所です。

 国土を分割されたドイツ人は、東西両陣営の冷戦によって最も深刻な被害を受けた民族の一つです。しかしそれは、ナチスドイツが第二次世界大戦を起こし、欧州全体に大きな被害をもたらしたことの代償でもあります。その意味でも、ベルリンの壁や東西分割の事実をきちんと保存することは重要だと思います。みなさんもベルリンを訪れたら、壁のあった場所に立ってみて下さい。ドイツの首都がいかに複雑な歴史を持っているかを知ることができるでしょう。

NHKドイツ語テレビ会話 2009年4月号