われわれ日本人は、「島流し」という言葉を聞くと、讃岐に配流された崇徳院や、鬼界ケ島に遠島処分になった俊寛の悲惨な運命を思い出してしまう。だがナポレオンの島流しは、少し事情が違ったようだ。
オ−ストリアなどの敵国は、ナポレオンに「皇帝」という呼称を引き続き使うことを認めた他、エルバ島の君主として君臨することを許可した。さらに歩兵と騎兵850名が、敗残の将に同行することまで許している。今日の戦争では考えられない寛容さである。睡眠を3時間しかとらない精力的な人物として知られたナポレオンは、崇徳院のように絶望の中に落ち込むのではなく、エルバ島の経済力を高めるために力を尽くした。
例えば街路樹として植えるオレンジの木や、ワインの製造のための葡萄の木、養蚕業のためのクワの木を本土から島に輸入している。さらに彼は劇場、道路、病院を建設し、彼の「小さな王国」を充実させる努力をしている。今もエルバ島のあちこちで、白地に赤色の斜線をひき、その上に三匹の蜜蜂を配した旗がはためているが、これはナポレオンが制定したエルバ島の「国旗」である。ナポレオンはこの旗に、「蜜蜂のように勤勉に働くべし」という島民に対するメッセ−ジをこめたものと言われている。
ポルトフェライオの町の高台には、ナポレオンが住宅として使った建物が今も残っている。エルバ島に到着後、彼は市役所の一室に住んでいたが、その建物は町の真ん中にあって騒がしい上に、刺客の攻撃を防ぎにくいことから、海に面した断崖の上の「風車の家」と呼ばれていた建物に住むことに決め、イタリア人の建築家に改装させた。二つの要塞にはさまれた高台にあるため、攻めてくる敵を撃退するには適しているが、建物そのものは、フランスの支配者だった人物の居宅としては質素だ。
装飾もほとんどなく、兵営を思わせる。ナポレオンが使っていた家具も、その死後にほとんどが売り払われている。上部に白鳥や竪琴の彫刻を施した天蓋つきのベッドと、背表紙にナポレオンの頭文字「N」を付けたフランス語の書籍が、ここにナポレオンがいたことを偲ばせるにすぎない。
ポルトフェライオから南西に5キロ離れた山の斜面に、ナポレオンが夏の暑さを逃れるために使った別荘がある。この建物は彼が建てさせたものではなく、親戚から譲り受けたもので、これまた元フランス皇帝にはそぐわない地味な建物である。その横にはボナパルト家の親類である貴族がナポレオンの死後、19世紀中頃に建てた豪壮な邸宅があるが、ナポレオンの別荘はこの邸宅に比べると、見劣りする。彼の心を慰めたものは、周囲のしたたるような緑と、はるか彼方に横たわる紺碧の海だけだったに違いない。
(熊谷 徹・ミュンヘン在住)(イラストも筆者)