サラエボの悲しみ

 ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の首都、サラエボ。私が常に泊まるホテルの真向かいに、戦争で破壊された20階建てのビルの廃墟が、今も残っている。建物は真っ黒に焼け焦げ、外壁は、砲弾や機関銃弾の痕でささくれ立っており、窓ガラスをすべて失ったビルは、人体から肉や皮を取り去った後の、巨大な骸骨のように見える。

元々ボスニア政府の所有だったこのビルは、戦争が終わって8年経った今も、買い手が見つからず、取り壊すにも費用がかかりすぎるので、無残な廃墟のままの姿をさらしているのである。今朝もホテルの窓から道の反対側を眺めると、ビルの前の歩道を、片足のない男性が松葉杖をつきながら、歩いていく。内戦で負傷し、足を切断したのだろうか。男性の着ている上着の真っ赤な色が、朝日を浴びて輝き、私の目にやきついた。

このように、1992年から3年間にわたりこの国に吹き荒れた内戦の傷痕は、現在もなおサラエボの至る所に残っている。オーストリア、スロベニア、ドイツを除くと外国企業の投資も少なく、失業率は38%にのぼっている。国民一人当たりの国内総生産は、1410ドル(約17万円)で、日本の25分の1にすぎない。しかも人口436万人のミニ国家は、回教徒とクロアチア系市民の多いボスニア・クロアチア連合と、セルビア系市民の多いスルプツカ共和国の二つに分かれており、国境こそないものの、二地域の市民の間には、ほとんど交流がない。

二つの地域を合併させようという動きも、内戦がつけた深い心の傷痕のために、あまり進んでいない。このため、ボスニアの政治や経済に関する最も重要な決定は、今も西ヨーロッパから派遣される外国人の高級官僚が行っている。デイトン合意が履行されているかどうか監視する国際代表部のパディー・アシュダウン部長は、過去1年に86件の法律を発布し、ボスニア人の役人13人を更迭した。

地元議会もあるが、国際代表部が発布する政令の方が、重要である。つまり、ボスニア人たちは戦争終結後8年経った今も、自分たちの手で国を統治するに至っていないわけだ。一体いつ、本当の意味での自治が実現するかについては目途が立っていない。カラジチ、ムラヂチなど、回教徒系住民に対する残虐行為について責任を問われている、セルビア人も未だに逮捕されていない。さらに米軍などが撤退したら、回教徒とセルビア系市民の間で、再び戦闘が勃発してもおかしくないと言われているだけに、ボスニアが当分の間、欧米の統治下に置かれるのはやむを得ないかもしれない。

このヨーロッパで最も貧しい国の一つに、本当の春がやってくるのは、いつのことだろうか。


保険毎日新聞 2003年7月17日