ワルシャワ蜂起から60年
8月。日本人にとっては、うだるような暑さとともに、広島、長崎、そして敗戦の記憶がよみがえる。
第二次世界大戦を生き残ったポーランド人、特にワルシャワ市民にとっても、8月は忘れることができない月である。
今からちょうど60年前の1944年8月1日、ドイツ軍に占領されていたワルシャワで、地下抵抗組織であるポーランド国内軍(AK)が、占領軍に対して一斉蜂起に踏み切ったのである。映画「ピアニスト」にも克明に描写されているこの戦いには、ゲットーに押し込められていたユダヤ人や、女性や子どもたちまで加わった。
当時ドイツ軍は東部戦線から本国へ敗走中であり、夏季大攻勢を始めたソ連軍は、ポーランド東部に迫っていた。英国に亡命していたポーランド政府は、「ポーランド人が蜂起すれば、ソ連軍が援助してくれるだろう」と考え、戦後の国内政治で主導権を握るためにも、蜂起を指令したのだ。ポーランド人は勇敢に戦ったが、兵器や戦闘経験の面でまさるドイツ軍に勝ち目はなかった。
さらに、ソ連の指導者スターリンは、国内軍が壊滅した方がポーランドを統治しやすくなると考えたため、ソ連軍をワルシャワに突入させることなく、ポーランドの抵抗派を事実上見殺しにした。戦士たちは、下水道に潜って抵抗を続けたが、一人また一人と狩られていった。
63日間の戦いで、国内軍兵士や市民18万人が死亡し、蜂起は失敗に終わる。ドイツ軍は戦闘で壊れなかった建物にも爆薬をしかけて、ワルシャワの中心街を徹底的に破壊した。現在でも同市を訪れると、中心街は広大な空き地になっているが、これはドイツ軍の破壊の爪痕なのである。
ポーランドは歴史上二度にわたり地図から消滅した上、戦後も東側陣営に組み込まれて、自由への渇望を封殺された。
1994年にドイツのヘルツォーク大統領が、ワルシャワ蜂起50年記念式典で「ドイツ人がポーランドに対して行ったことについて、許しを請う」と、日本の政治家では考えられないような、率直な態度で謝罪したり、今回シュレーダー首相が「ドイツ市民がポーランドで没収された土地の賠償を請求しても、ドイツ政府は認めない」と発言したりした裏には、ポーランドがなめてきた辛酸への配慮がある。
ポーランドがイラク戦争で米国を支援し、ブッシュ政権と軍事的な協力関係を深めている背景には、「将来の万一の時」に頼りになるのは米国しかないという、歴史の経験に基づいたドライな計算がある。中欧・東欧の現代政治を考える上で、過去の記憶を無視することは絶対にできないのだ。
週刊 ドイツニュースダイジェスト 2004年8月20日