芸者とビール

ある晴れた晩夏の土曜日、ジャーナリスト協会の恒例行事として、オーストリア近くの山へ向かった。同業者ということもあって和気あいあいという雰囲気。しかし、20人ほどの参加者中、半分ぐらいが失業中だ。日本のマスコミの人たちは普段、働きすぎで顔色も悪く、まして山登りなどめったにできない、と言えば「ドイツのジャーナリストは職がないから健康だ」とあっけらかんとしたもの。ある人は失業中なのに、娘と二人、スエーデンまで車で行って、キャンピングして格安休暇を過ごした。なんと、三週間も!

 それはさておき、ハイキングの途中私は「ドイツのマスコミの、日本に関する記事といえば、あいかわらず“芸者、やくざ、富士山、それに駆け足で行う短期の団体観光旅行”ばかりで、それが何回でも伝えられるから人々の先入観を作るマスコミの責任は大きい」とぶつぶつ、マスコミ界の安易な“リサイクル事情”への憤りをまくしたてた。

しかし同時に私は心の中で「でも日本のマスコミだって似たりよったりで、ドイツといえば、オクトーバーフェストとビール、マイスター制度に環境問題、シュタイナー教育に介護保険かな?」とつぶやいた。

 日独に限らず、ある国についてのイメージに基づくテレビ番組や記事というのは常にある。なぜか。理由は簡単。発信する側が“芸者のイメージはわかりやすくて映像にもなりやすい”、“聴衆はきっとこういった番組を期待しているにちがいない”、“聴衆が知っているテーマで発信すればわかってくれる”とか思いこんでいること。逆にいえば“聴衆が知らないテーマでは見てもらえない“という確信にも近いものがあるのかもしれない。

 家に帰って週末の南ドイツ新聞をめくれば、ジャ−ン。三ページ目にみごと、芸者の写真が大きく乗っているではないか。このタイミングの良さ。それも一ページ、ほとんど全面すべて割いて、二人の芸者のカラー写真つき!

 写真のキャプションには“ある意味で(私たちは)他の日本人女性より自立している”とあるのは、“芸者ではない女性は自立していない”という意味か。では、日本では芸者の道こそ“女性の自立への道”だとでも言いたいのだろうか。

 記事のタイトルは“雰囲気づくりの芸術家”、副題として“彼女たちは踊り、奏で、知的会話をもりあげる:社交の場の日本文化はいまも魅力に満ちている;京都出身の二人の女性が芸者の神秘的な世界を紹介”とある。一体、いつまで同じことを繰り返すのだろうか。日本に関する予備知識が全くない人には“日本、イコール芸者”になってしまう危険はないのだろうか。ドイツではやった最近の日本の書籍もたしか“芸者”だった。

 一方日本人が抱くドイツのイメージも、似たりよったりで、定番では民族衣装を着てビールを飲むドイツ人。ドイツではビールの消費量が激減して、日本人が着物を着なくなったと同様、ビール祭の時を除けば民族衣装を着ている人などめったにいないのに。

 嗚呼、日本とドイツは相互理解という面で本当に離れているのである。 (文・福田直子 絵・熊谷 徹)

保険毎日新聞 2003年11月7日掲載