ノルマンディーの英霊

今でこそ私が住んでいるドイツでは、日本人もユダヤ人も中国人もロシア人も、社会の一員として暮らしているが、この国はわずか60年前には、ナチスという恐ろしい犯罪者の集団によって支配されていた。

そこでは、ユダヤ人や外国人、反体制派は拷問されたり処刑されたり、ポーランドやチェコに建てた強制収容所に送られたりしていたのだ。

そう考えると、今からちょうど60年前にあたる1944年の6月6日に、米国と英国を中心とする連合軍が、15万人の兵力をもって、フランスのノルマンディー海岸に上陸し、ヒトラー一味を打ち破るきっかけを作ってくれたことは、本当にありがたいという気がする。

米国はドイツから本土に直接の攻撃は受けていなかったが、「ナチスを野放しにしておくことは、米国の脅威になる」と考え、自国民に犠牲者が出ることを覚悟の上で参戦した。

米国は北アフリカやイタリア南部には上陸していたが、西ヨーロッパには足場がなかった。

そこでフランスに上陸して一気にドイツに攻め込むために、大規模な侵攻軍を派遣したのである。

だが連合軍側の犠牲も決して少なくなかった。

悪天候のために上陸用舟艇が沈没したり、海岸に陣取ったドイツ軍に機銃掃射されたり、パラシュートで降下したが海に落ちてしまったりして、死亡した連合軍兵士の数は、1万人にのぼる。

米国の片田舎から徴兵されてきて、フランスで初めて外国の土を踏んだ瞬間に、ドイツ側の銃弾で命を落とした若者も、数え切れないほどいたはずだ。

ノルマンディー地方には、この地で戦没した、名もなき兵士たちを埋葬した墓地が、数多く残っている。

さてヨーロッパの解放に貢献した兵士たちは、草葉の陰で、60年後の米国がイラクで行っている新しい戦争をどう見ているだろうか。ノルマンディーで戦った兵士たちには、ナチスを打倒するという、一点の曇りもない大義名分があった。

イラクで戦った米兵たちは、化学兵器や生物兵器など、サダムフセインの大量破壊兵器を発見することを、最も重要な目的としていたが、その種の兵器は全く発見されなかった。

フセイン政権とアル・カイダの結びつきも、確認されていない。

ブッシュ政権は、サダム・フセインが米国にとって直接の脅威ではなかったにもかかわらず、あたかもサダムが9・11事件に関連があるかのような印象を国民に与え、国連憲章に違反する侵攻を正当化した。

しかしサダム政権転覆から一年以上経っても、治安を回復することができないだけでなく、ジュネーブ協定に違反するイラク捕虜虐待事件によって、信用性を大きく低下させた。

欧米間の同盟関係にも、深い溝が生じた。

イラク戦争は、ベトナム戦争以上に大義名分が曖昧な戦争として、歴史に記録されるだろう。

ノルマンディーの土の下で、英霊たちは、米国がはまりつつある泥沼に、深いため息をついているかもしれない。

(文と絵・熊谷 徹 ミュンヘン在住)

保険毎日新聞 2004年7月1日